Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ルイセンコ

科学史や科学哲学で有名なルイセンコ事件について紹介してみる。

ソ連生物学者トロフィム・ルイセンコはウクライナに生まれた。1928年の論文で、ルイセンコは秋まき性の植物を低温処理すると早めに出芽する「春化」を報告し、これを低温処理によって秋まき性の植物が春まき性に変化したと解釈し、ラマルク的な獲得形質の遺伝を支持した。これだけなら異端の生物学者ということで話は済むかもしれないが、ルイセンコはスターリンの公認を得ることで、メンデル遺伝学を支持する研究者を権力を用いて弾圧した。ニコライ・ヴァヴィロフなど第一線の研究者が粛清された。

分かりやすい教訓としては、何が正しい科学的仮説なのかを決めるのは科学者(が行う実験)であり、政治的な権力者であるべきではない、といったところだが、これだけだと常識の再確認でしかない。もう少し掘り下げて考察しよう。

まず、春化vernalizationという現象じたいは(STAP細胞などと違って)でっち上げではない*1。高校生物の教科書にも載っているように、例えば、秋まき小麦の種子を春先にまくと成長するけど花芽を形成しないのだが、発芽させてから低温処理をして春先にまくとちゃんと花芽を形成してくれる。まるで春まき小麦みたいだ、ということになる。

実際には、ルイセンコは春化の発見者ではなく、1918年頃にドイツの科学者ガスナーがすでに観察していた。ルイセンコの独自性は、獲得形質の遺伝の証拠として解釈した点にある。しかし、春まき小麦と秋まき小麦は別種の植物であり、低温処理によって秋まき小麦が収穫量の多い春まき小麦になるわけではなく、寒冷に強くなるわけでもない。春化処理した秋まき小麦から得られた種子を何もせずに翌年の春先に蒔いても収穫は望めない。

教科書にもあるように、植物の発芽や花芽形成の条件には日照時間や温度などが関わっている。春化は環境の変動に対する植物の適応能力を利用した手法とみなせる。

春化には有用な側面もある。春まき小麦より秋まき小麦の方が収穫量が多いが、シベリアのように寒い土地では秋に種を蒔いても寒すぎたり雪が積もったりで収穫できないことがある。春先に収穫量の多い秋まき小麦を蒔けるなら、それに越したことはないように思える。

それにしても、なぜスターリンはルイセンコ説を公認してメンデル的な遺伝学を禁止したのだろうか。この疑問は、氏と育ちの対立と関係している。社会主義者の信条としては、あらゆる社会的不平等は抑圧的な環境に起因するので、不平等が遺伝的に決まっているなんてありえない、ということになるのかもしれない。もっとも、1920年代後半までソ連優生学を支持しており、社会主義と遺伝学の関係はそれほど単純ではないはずだが、ともかく1930年代からはメンデル遺伝学への風当たりは極めて強くなった。

ルイセンコは平等主義を植物にまで適用したと言える。彼は春化に関する説のほかにも、同種の生物どうしは競争せず生存するために協力し合うという「種の生命の法則」を唱えた。「種内競争」も高校生物で習う概念だが、ルイセンコの説はことごとく現代の常識に反しているという印象が否めない。ちなみに、種間競争に関して、同じようなニッチを占める生物種は排除しあうという競争排除則を提唱したソ連の科学者ガウゼは亡命を余儀なくされた。

第二次世界大戦後、ソ連ではシベリアの広大な土地に何百万本もの木を植林する自然改造計画が立ち上がった(ショスタコーヴィチの「森の歌」はこの事業にあわせて作曲された)。このとき、ルイセンコは種の生命の法則に基づいて農民に種や若木を密植させたため、若芽や若木はすべて死滅したという*2。戦後のソ連の自然改造計画というと、他にもアラル海を干上がらせたことなどで知られているが、ロクなことがなかったのではないかと思われる(同時代の西側先進国でも公害が問題になっていたとはいえ)。

ルイセンコの活動は、科学者の粛清をもたらしたというだけでなく、普通の農民たちにも実害を与えた。彼の農法は非科学的だったので、農産物の生産量の見通しを大きく誤らせることになった。ソルジェニーツィンによれば

1934年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった*3

ルイセンコの農法が実害はソ連にとどまらず、中国や北朝鮮にも及んだ。ベッカーの『餓鬼』によれば、大躍進政策で大規模な餓死が引きおこされた原因の一つはルイセンコの農法にあった。

ルイセンコは1960年代に物理学者のサハロフが糾弾するまで影響力を保持した。戦後の日本にも影響を与えたようだ。

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*1:vernusはラテン語で春という意味らしい。

*2:ジャスパー・ベッカー『餓鬼』上p.111

*3:収容所群島』(新潮文庫)1巻p.92

ラクトースオペロン

YouTubeの人気チャンネル「予備校のノリで学ぶ大学の数学・物理」で、最近、システム生物学という講座がはじまった。「物理みたいな生物学をやろう」というスローガンで、最初の二回は、遺伝子制御を微分方程式つかってモデル化するという話をされている。

遺伝子制御ってそういえば高校生物で少しだけ習ったなぁ…そういえば、モノーとジャコブが発見した大腸菌のオペロンの仕組みってよく理解できなかったんだよな、と思い調べてみた。昔の自分がどの辺で躓いたのか掴めた気がするのでメモしてみる。

シンプルで分かり易いのは、トリプトファンオペロンにみられる負の自己制御*1大腸菌トリプトファンを合成するが、必要以上に合成しないように、トリプトファン濃度が高くなったらリプレッサーがオペレータ部位にひっついて転写を止める。これが分かり易いのは、最終生成物が増えてくると自分の合成を止めにかかってくるから。

昔の私が躓いたと思われるのは、ラクトースオペロンの仕組み。これはラクトース[β-ガラクトシド]をグルコースガラクトースに分解する酵素[β-ガラクトシダーゼなど]の合成を制御する仕組みだが、上の例と違う点がある。グルコース濃度が上がると酵素の合成が止まる、という点は似ているのだが、今回リプレッサーを制御するのはラクトースの方なのだね。要点としては:

  • ラクトース濃度が高くなければ酵素をコードする構造遺伝子の転写をはじめる理由はない。リプレッサーはオペレータ部位にひっついているのがデフォルトで、ラクトース濃度が高くなるとリプレッサーがオペレータ部位から外れる。
  • グルコースの方はというと…。オペロンの上流の方にCAP結合部位という領域があって、グルコース濃度が低いときはサイクリックAMP(cAMP)という分子がCAPという調節タンパク質と結合して、CAP結合部位にひっつく。これで構造遺伝子を転写するスイッチが入る。グルコース濃度が上がると、cAMPがCAPから離れてCAP結合部位からも離れる。これで転写のスイッチがオフになる。

こちら(↓)の解説が分かり易かった。トリプトファンオペロンとの違いにも注意が払われている。

なぜこういう風にできているのか疑問だが、ラクトース代謝系はグルコースが欠乏した場合に備えてのバックアップだと考えれば納得できる気がする。変なアナロジーだが、夜間に自動で点灯する照明は暗闇を探知してるわけではなく、あくまで周囲の光を探知していて、光が不足することでスイッチが入る、というのと似ている気がする。光がないとスイッチが入る。グルコースがないとスイッチが入る。

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*1:ヨビノリの講義の2回目で解説されている負の自己制御の仕組みは、トリプトファンオペロンに近い。

ヘンキンの問題

ゲーデル不動点定理を用いて「この文は証明できない」という趣旨を表現する算術の文gを構成して、gが無矛盾な公理系では証明も反証もできないことを示して、算術の不完全性を示した。

それでは、「この文は証明できる」を表現する算術の文を構成したらどうだろう。これは証明できるのか、できないのか。こういう問題をレオン・ヘンキンは立てた(1950)。この文をヘンキン文hと呼ぼう。

マーティン・レープは以下の定理を証明することで、ヘンキンの問題を肯定的に解決した(1955)。

  • Provable(φ)→φを証明できるなら、φを証明できる。

ヘンキン文hはProvable(x)の不動点として構成できる。不動点定理により

  • h ←→ Provable(h)

これは証明可能である。この双条件文を片方の条件文に変えると

  • Provable(h)→h

が得られる。よってレープの定理の前件が満たされたので、hは証明できることが示される。

レープの定理の証明には、次の一項述語を利用する*1

  • Provable(x) → φ

この述語の不動点をlとすると、不動点定理により

  • l ←→ (Provable(l)→φ)

が証明可能。lは「この文が証明可能ならφ」と言っているように読める。この双条件文を片方の条件文にすると

  • l → (Provable(l) →φ)

これは証明可能なので、

  • Provable(l → (Provable(l) →φ))

も証明可能*2。分配して

  • Provable(l) → Provable(Provable(l) →φ)

も証明可能。さらに分配して 

  • Provable(l) → Provable(Provable(l) ) → Provable(φ)

 も証明可能。一般に

  • Provable(x)→Provable(Provable(x) )

は証明可能なので、

  • Provable(l) → Provable(φ)

が証明可能。仮定により

  • Provable(φ) → φ

が証明可能なので、

  • Provable(l)→φ

が証明可能となる。これが証明できれば、lも証明できることになり、lが証明できればProvable(l)も証明できて、modus ponensでφが証明できる。q.e.d.

レープの定理の対偶をとってφに矛盾記号を代入すると、第二不完全性定理になる。第二不完全性定理からもレープの定理が導出できるので、この二つはある意味同値。

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*1:cf.Löb's theorem - Wikipedia

*2:可導性条件derivability conditionsの一つを使っている。以下のステップも同様。

ワルトトイフェル

最近、ワルツの指揮者として有名なロベルト・シュトルツによるワルトトイフェルのアルバムを聴いている。ワルトトイフェルというと、スケートをする人々(スケーターズワルツ)くらいしか知らなかったのだが、「女学生」とか楽しい曲をたくさん書いた人なのだね。

CD付属の解説も興味深かったのでメモしておく。

  • ワルトトイフェルはフランスのワルツ王と言われるが、彼の名前はドイツ風だ。それは彼がアルザス=ロレーヌ(独名エルザス=ロートリンゲン)の生まれだから。
  • パリ音楽院で学び、ビゼーやマスネと親交があった。
  • 1867年のパリ万博で演奏されたヨハン・シュトラウスII世の「美しく青きドナウ」に衝撃を受け、大きな影響を受けた。ワルトトイフェルの代表作はこの後に作られたものが多い。
  • ウィーン進出にも一時的に成功したが、1871年普仏戦争でフランスが敗北したことをきっかけに撤退(?)。1870年頃、ワーグナーはある評論で「優美、淡麗、そしてゆたかな音楽性を持っていることでは、シュトラウスのワルツのどの一つをとってみても、わざわざ手数をかけてしばしば輸入される外国製のものより、はるかに優れている」と書いた。ここで「輸入される外国製のもの」として念頭に置かれているのはワルトトイフェル。ワーグナーはフランスで成功しなかった人なので、これだけ読むとひがみを感じなくもない。
  • ワルトトイフェルは明治初期の鹿鳴館時代に日本でも好んで演奏された。当時はオーストリアとの国交がそれほど密接ではなかったためか、ヨハン・シュトラウスはあまりポピュラーでなかった。

ワルトトイフェルが亡くなったのは1915年だけど、彼の作風は古典的なので、20世紀になるとドビュッシーラヴェルなど印象派が台頭してきて一気に古びてしまったという話も聞く。それは十分理解できるけど、このアルバムは聴いてて楽しいし、シュトルツの演奏も素晴らしい。 

ディカプリオの彼女

レオナルド・ディカプリオの年齢の推移と、彼女の年齢の推移を示したグラフというものを見かけた。

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このグラフはなかなか味わい深い。まず、25歳がage limitとなっているのに笑ってしまうが、少し経って、1年以上彼女がいないということがなく、3年連続で彼女の年齢が下がっていることもある(2010-2013)のに気づいてさらに笑ってしまう。

このグラフに触発されてちょっとしたパズルを思い付いたので記しておく。次のような三段論法を考える。

  1. 人間はみな毎年一つ年をとる。
  2. レオナルド・ディカプリオの彼女は人間である。
  3. したがって、レオナルド・ディカプリオの彼女は毎年一つ年を取る。

二つの前提はどちらも正しそうだし、演繹的にも妥当な推論だと思われるが、上のグラフを考慮するとこの結論は奇妙に思える。

おそらく「毎年年をとる」という述語には量化が隠れており、「レオナルド・ディカプリオの彼女」が記述句であるというのが問題の元凶なのだろう。もしそうなら、結論は多義的になる。記述句のスコープを広くとって、ディカプリオの彼女である人物について、そいつは毎年年をとる、という風に事象的に読めば結論は正しいが、記述句のスコープを狭く解釈すれば偽になるのではないか。しかし、「毎年年をとる」をどういう風に分析すればいいのか分からない。

 

エンペドクレス

「ねえ、エンペドクレスのサンダルの話知ってる?」 「え、なんだって。」 「エンペドクレスって、世界で一番最初に、純粋に形而上学的な悩みから自殺したんですって。」 「へえ。」 「それでヴェスヴィオの火口に身を投げたんだけど、あとにサンダルが残っていて、きちんとそろえてあったんですって。」 「へえ。」 「素敵ね、エンペドクレスって。」 「うん(?)」 「サンダルがきちんとそろえて脱いで合ったんですって。いいわあ。」 「ふーん。」*1

wikipediaには、ヴェスヴィオ火山ではなくエトナ火山に飛び込んだという逸話が載っているので、どういうこっちゃと思ったのだが、調べてみるとことごとく通説とズレているのが分かって、これはもうわざと改変してるんだろうなと思った。

ディオゲネス=ラエルティオスの『列伝』には次のようにある。宴会が終わって夜が明けると、エンペドクレスの姿はなかった。これに関して諸説あるのだが

ヒッポボトスによれば、エンペドクレスは起き上がってから、アイトナの方へ向かって旅立っていったのであり、そして噴火口のところまでたどり着くと、その中へ飛び込んで姿を消したが、それは、神になったという自分についての噂を確実なものにしたいと望んでのことであったという。しかし後になって、事の真実は知られることになった。というのも、彼が履いていた靴の片方が焔で吹き上げられたからであるが、それは彼が青銅製の靴を履くのを習慣にしていたからだというのである*2

*1:庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』新潮文庫p.15

*2:『哲学者列伝』8巻、邦訳下巻p.66

大内宿とイザベラ・バード

この前紹介した、YouTubeの「ゆっくり大江戸」で大内宿の動画を見て触発されたので、その勢いで大内宿に行ってきた。知らない人向けに簡単に説明すると、大内宿は福島県会津あたりの宿場。江戸時代の雰囲気が残った景観が魅力的で、年間100万人ちかい観光客が来るらしい。

交通の便はあまりよくない。動画では鬼怒川まで鉄道で、そこから大内宿までは車、という少し変則的なルートを紹介していたけれど、私の場合は東北自動車道を使って車のみで移動した。鉄道だけで行く場合には、会津鉄道湯野上温泉が最寄り駅になるけど、そこから大内宿まではだいぶある。歩けないことはないと思うが、バスかタクシーになりそう。

大内宿の名物は、ネギを丸々一本使ったそば。ネギを箸の代わりにして食べる、という異色の一品だ。もちろん、そのネギも食べられる。いろいろなお店で提供されているけど、人気があって早めに売り切れるので注意が必要。それにしても、ネギを丸かじりして食べるなんてこれが初めてだ。

明治時代初期に日本を旅行した英国人女性イザベラ・バードも大内宿にきた、という話だ。別に大内宿が目当てというわけではないはずだが。彼女の旅行記に何か書いてあるかな、と思って調べてみたが、かなり短めの記述しかなかった。いちおう引用しておこう*1

この地方は実に美しかった。これまでは連日、頂きまで森におおわれた山々が連なる中をたどり、山王峠の頂からは夕焼けで黄金色に霞み、この世のものとも思えない美しい群山を眺めたのとは異なり、もっと広々としたもっとすてきな景色だった、私は大内という村にある養蚕場・郵便局・内陸通運会社継立所を兼ねる家で泊まった。大名が泊まった所でもあった。この村は 周りを山々で美しく囲まれた谷間にあった。翌日は早朝に出発し、噴火口のような凹地にある公沼という小さな美しい湖の畔を通ったのち、市川峠に至る長々と続く大変な峠道を登って行った。…

まぁ、大内宿はそれほどたくさんの見どころがあるというわけではないので、2時間もあれば観光には十分な気もする。なお、今回の私の場合は一泊二日の小旅行で、初日は移動して、大内宿とその周辺を適当に散策して、湯野上温泉に宿泊。二日目は会津若松に移動して、会津城や日新館を見学して、帰宅、という感じ。会津に行ったのはこれがはじめてなのだが、中々の好印象。あと、大河ドラマ『八重の桜』を見返したくなった。

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*1:『完訳 日本奥地紀行1:横浜ー日光ー会津ー新潟』p.219f