Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

コルモゴロフ

ルイセンコ説は、権力が科学に介入するとどんな悲惨なことが起きるのかの例証として、科学史や科学哲学でよく用いられる。しかし、一体どういう理由で獲得形質の遺伝がソ連において正統な学説とみなされたのだろうか。

先日紹介したマット・リドレー『徳の起源』によると、この疑問は氏か育ちかという問題と関連している。レーニンやスターリンは筋金入りの環境決定論者だった。人間は教育・プロパガンダ・権力によって完全に新しい人間につくりかえることができる。スターリン政権下ではこの信念が小麦にまで適用されることとなり、結局ルイセンコ説が1964年まで支配的となった。この学説を証明しようとして数百万人が餓死した*1

そういうわけで、ソ連ではダーウィン主義が弾圧されたわけだが、他の学問分野、例えば、数学ですら弾圧を完全には免れなかったようだ。最近図書館で目を通したガッセン『完全なる証明』はポアンカレ予想を証明した数学者ペレルマンの謎にせまろうとしたノンフィクション作品なのだが、この本は序盤でソ連数学教育について一章を割いている(2章)。この章の主人公はコルモゴロフ。コルモゴロフというと、私は確率の公理系やBHK解釈などを連想するのだが、教育者としても大きな役割を果たしたようだ。実際、彼は、エリート教育など絶対に許されない中で制度の抜け穴をうまく見つけてレベルの高い学校をいくつか作った。ペレルマンも出身者であるそういう学校は、マルクス主義の洗脳から有能な若者を守ることにつながったのだとか。

コルモゴロフは比較的若くしてソ連の数学界でも地位を確立したので上手いこと自由に動き回ることができた。しかし、最終的には、数学の初等教育の改革に着手したことが西側世界で行われていた教育改革と似ていたこともあって反ソヴィエト的だとかいう批判をくらって失脚した。何ともやりきれない話だ。

この章でもう一つ興味深かったのは、ソ連の数学者と西側諸国の数学者はコミュニケーションをとる手段がなかったので、同時期に同じような問題に取り組んで同じ成果を挙げていたことが後になって判明した、という話。クック=レヴィンの定理やチャイティン=コルモゴロフ複雑性といった二人の名前を冠した名称には、そういう事情があったんですねぇ…。

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*1:リドレー『徳の起源』p.347