Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

大学の講義資料をネットで探す

コロナ禍では大学の先生たちが講義資料や動画をせっせとアップロードしてくれたおかげで,今まで触れてこなかった分野の勉強ができてとてもよかった.最近は以前ほどには講義や講演の動画がアップされなくなっていて悲しい.

それにしても,ネット上の講義資料をいろいろと探していて思うのは,理系の先生たちは分量の多い資料をたくさん共有してくれて太っ腹だなぁと.北大の数学の先生が作成した微積分と線形代数の資料とか,本当にすごい.

哲学(というか,たぶん文系一般)でこの規模の講義資料をアップロードしてる先生はいない(はず).もちろん,理系だってこの規模の資料はそうそうお目にかかることはないとは思うけれども,それはそれ.日本の文系はこういうところですでに大きく水をあけられていると感じてしまう.本当に残念だ.日本で文系の教養教育を担ってるのは大学の先生よりYouTubeのゆっくり解説動画なのではないかと疑ってしまう.

三発目の原爆

大澤真幸サブカルの想像力は資本主義を越えるか』という本には,日本人のアメリカに対する複雑な心情を分析している章があるが,その際にこんな話が出てくる(p.69f).

加藤典洋さんから直接聞いた話ですが、森有正という、パスカルの翻訳などで有名な、非常にすぐれたフランス文学者がいます。…

ほぼフランスで暮らしていたのですが、彼のエッセイで、フランス人の女性と「広島と長崎に原爆が落ちた。では三発目の原爆は、どこに落とされてしまうのでしょうね」という話をしたエピソードが出てきます。その時,彼女は即座に「三発目も,また日本だ。確実じゃないの」と答えたそうです。なぜか。「原爆を落とされて、あんなに怒らない国はない」からでした。

ここで言及されているのは「木々は光を浴びて」というタイトルのエッセイで,『森有正全集』の5巻に収録されている.しかし,実際に読んでみると,大澤の紹介とはだいぶ違う印象を持った.少し長いが,引用しておく.

この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。大学内ゴルフ場内のレストランへ案内して話をした。緑に囲まれた食堂では、何人かの人々が静かに食事をしていた。生粋のパリ育ちのこの女性は数年間を日本で過したのである。私達はよも山の話をしていたが、やがて話は日本における生活、ことに東京の生活のことになった。どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時かの女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。かの女は急に頭をあげて、殆んど一人言のように言った。「第三発目の原子爆弾はまた日本の上へ落ちると思います。」とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを、口に出してしまったのだ、ということが余りにもはっきり分ったからである。かの女は政治的関心はなく、読書も趣味も友人も、ごく当り前の娘さんである。まして人種的偏見なぞ皆無である。感じたままを衝動的に口にしただけなのである。*1

違和感のある箇所をいくつか挙げると,まず,大澤は,「広島と長崎に原爆が落ちた。では三発目の原爆は、どこに落とされてしまうのでしょうね」という話をしたエピソードとして紹介しているが,森のエッセイでは「何の話の中でそうなったのかよく記憶していない」と書かれている.また,大澤は「彼女は即座に「三発目も,また日本だ。確実じゃないの」と答えたそうです。なぜか。「原爆を落とされて、あんなに怒らない国はない」からでした。」というが,森のエッセイには「原爆を落とされて、あんなに怒らない国はない」とまでは書かれていない.

*1:森有正全集5』p.66f

ハプスブルク帝国の歩き方

旅行ガイドブックとして有名な『地球の歩き方』から『ハプスブルク帝国』の巻が発売されて話題になっている.自分も思わず買ってしまった.

前半が帝国の歴史解説で,後半が旅行ガイドという構成.ホームページの正誤表を見ると,リシュリューマザラン肖像画を間違えるといった失敗があるみたいだけど,ざっと見た感じ高校世界史の既習者にちょうどよいレベルのハプスブルク帝国入門書になってる気がする.それにしてもハプスブルク帝国の領土は広大だわ.

ちなみに,大澤真幸の『量子の社会哲学』という本は,ハプスブルク帝国の消滅は比類なきものである,なぜなら,かつてこの帝国があったということを示すものがほとんど残っていないから,といったことを述べている(p.126).普通に考えて,これはちょっと首をかしげたくなるコメントだ.そもそも,大澤がここで参照しているジャニクとトゥールミン『ウィトゲンシュタインのウィーン』が痕跡がないと言ってるのはバルカン諸国の話だし,それも城郭とか市庁舎などの建築を除く,と断っている(pp.25-27).そりゃあ,オーストリアとかチェコとかハンガリーならハプスブルク帝国の痕跡がいくらでも残っているでしょうね……

 

 

偉人はそんなこと言ってない

偉人が言ったとされるけど,出典が見つからない文言はいろいろある.たとえば,「最近の若者は…」といった愚痴は古代ギリシャ時代からすでに言われてきた,という話はよく聞く.ソクラテスがそう言ったと紹介しているものもある.しかし,たぶん、これはガセネタなのだろう.

別の例.ラッセルは自分の生涯について次のように言ったとされる.

のちにラッセルは、自分の生涯を要約して、頭の一番良いときに数学をやり、少し悪くなると哲学をやり、もっと悪くなって、哲学もできなくなったので、歴史に手をつけた、というような放言をしている*1

同じような文言を紹介している文献は他にもある*2.しかし,典拠は記されていない.それどころか,少し違った文言になっているものもある.

ラッセルは,あるところで,知的創造力のもっとも活発な若いときは数学を,ついで哲学を,知力が衰えてからは政治をやろうと考えたと述べたことがある。*3

こちらでは「歴史」ではなく「政治」になっているし……

英語圏でも同じような疑問を持った人はいるようだ.Redditで次のような質問があがっていた.

Postscript (2025/12/25)

さらに別の例.福祉の文脈でよく「弱者は助けたくなるような姿をしていない」みたいなフレーズが出てくる.こういうことをトルストイが言った,と断言しているサイトもちらほら見かけるが,やはりそんな事実はなさそうだ.

 

意義と意味について

言語哲学の歴史では,ゴットロープ・フレーゲが19世紀の末に記した「意義と意味」という論文がたいへん重要なものとされている.そこで「意味」と訳されているのはBedeutung,「意義」と訳されているのはSinnというドイツ語である.フレーゲは同論文で「明けの明星」と「宵の明星」というふたつの言葉を例に挙げ,両者はともに物理的には金星を指し,それゆえ同じBedeutungをもつが,使われる文脈は違うのでSinnは異なると論じた.だとすれば日本語の語感としてはBedeutungは「指示対象」と訳し,Sinnこそ「意味」と訳したほうがよいと思われるが,なぜかいまもこの訳が定着している.[中略]なお,フレーゲの英訳では,Bedeutungはreference,Sinnはsenseと訳されており違和感はない.*1

「なぜかいまもこの訳が定着している」と皮肉っぽく言っているが,それなりにまともな理由があるという可能性を考慮に入れるべきだと思う.飯田隆言語哲学大全1』では,巻末のクイズでBedeutungを指示と訳すと何がマズいのかを問うているくらいだし.

フレーゲの論文「意義と意味について」は序盤で「明けの明星」と「宵の明星」の例が出てくるので,Bedeutung / Sinnの区別は固有名にだけ当てはまると誤解されがちだが,もう少し読み進めれば,文にもBedeutung / Sinnの区別があり,文のBedeutungは真理値だというテーゼが主張されている.また,多くの解釈者は述語や関数記号についても同じ区別が成り立つと考えており,その場合,これらの不飽和表現のBedeutungは関数になる.Bedeutungを「指示対象」と訳す場合,こういうものもすべて「指示対象」と呼ぶことになる,という帰結を引き受ける必要がある.逆に,Bedeutungを「意味」と訳すことにすれば,「固有名の意味は指示対象である」といった言い方ができる,という利点がある.

なので,「指示(対象)」と「意味」とどちらで訳すかは一長一短だと思う.英訳ではBedeutungはreference,Sinnはsenseと訳されていると言ってるけど,どの翻訳かな.Bedeutungをmeaningと訳す人もいるし,大文字にしてMeaningと訳す人もいる.

*1:東浩紀『訂正可能性の哲学』p.69n32

佐藤彰一『歴史探究のヨーロッパ』

佐藤彰一『歴史探究のヨーロッパ』という本を図書館で見つけた.扱われている時代が初期近代で,目次を見た感じこれは結構面白そうだと思い早速借りてみたのだが,初っ端で詰まってしまった.

デカルトが人間精神は「白紙状態」から開始するとするのに対して,ライプニッツは… p.vi

精神が白紙から開始すると言ったのはロックじゃないかなぁ,とか.同じページの少し前の箇所も引っかかる.

思考する自分は存在している,その明証性は疑うことはできない.換言すれば,そのこと以外は一切が疑わしいとする態度が,デカルトの懐疑哲学の真髄であった.

こうした思惟の構造が,数学をはじめとする自然科学との親和性が強いことは言うまでもない.p.vi

コギト命題以外は一切疑わしいとか,「デカルトの懐疑哲学」とか,すごく引っかかるし,自然科学との親和性が強いことが「言うまでもない」とか断言されても,なんでそうなのか全然分からない.

歴史学者怖い.

児玉『オックスフォード哲学者奇行』

オックスフォード大学にゆかりのある哲学者たちの人生模様を紹介する本.哲学の話はあまり扱われていないが,ゴシップが豊富で自分も知らない話も多かったので,読んでいて楽しい本だった.吹き出しそうになることも何度もあった.

たとえば,ライルとエア(Ayer)に関する逸話.ライルはエアの十歳上の先輩で,エアのチューターでもあった.しかし,この二人の性格は対照的で,ライルは生涯独身で成人してからはオックスフォード大学とその近辺で一生を過ごしたのに対し,エアは生涯で4回結婚するなどロンドンを中心に社交的な生活を送っていた.

「1958年の秋,ライルはエアを連れて,5年に一度開かれる世界哲学会議に出席するためにヴェニスに向かって車を運転していた.……フランスのとくに平坦な地域を車で通過しているさい,エアは話すことが何もなくなり,ライルに「あなたは童貞か」と尋ねた.ライルは無愛想に「そうだ」と答えた.エア「では,仮に誰かと寝ることになったら男か女かどちらになりそうですか」ライル「男だろう,たぶん」.その後,二人は黙ったまま車で旅行を続けた.」(p.52)

他にも面白い話がいろいろ.みんな一癖もふた癖もあるが,やはりアンスコムの変人っぷりは次元が違う.あの師匠にしてこの弟子ありという感じ.

とはいえ,取り上げられている話題が全部が全部ばかばかしいわけではない.個人的には,ロワイヨーモンの会議についてもきちんと触れられているのがよかった.

ちなみに,この本で取り上げられなかった哲学者もまだまだいる(p.323)と断られているのが少し気になった.有名どころはほとんど紹介されているような,と思ったけど,たしかに,自分が思いつく範囲でも,ウィギンズ,ダメット,エヴァンズ,マクダウェル,ウィリアムソンといった面々は扱われていない.著者の専門が倫理学なので,そっち方面への偏りもあるかもしれない.

ケンブリッジ大学の哲学者の奇行については,次のサバティカルがあればそのときに書く(p.306)と言われているので,楽しみにしよう.