Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

嘘つき(2)

ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』から。

次の文は実際には何を意味しているのだろうか。「この文には三つもまつがいがある。」この文は正しいと言えるだろうか。実際には、間違いはただ一つ「まつがい」だけである。この文を正しく読めるものにするには、このように書き換えなければならない。「この文には一つのまちがいがある。」しかし、実は最初の文には三つの間違いがある。「三つ」は「一つ」、「まつがい」は「まちがい」でなければならないし、「も」は「の」あるいは「だけ」が正しい。それではこの文は結局のところ正しいことになるのだろうか。しかし、もとの文は正しいと言ったとたんに、それはやはり間違っていることになる。なぜなら、文が正しいのであれば、再び間違っているのは「まつがい」一つだけになってしまう。…

ここで私たちが直面しているのは、二十世紀の哲学において決定的な役割を演じた、独特なタイプのパラドックスである。このパラドックスは「嘘つきのパラドックス」として知られており…(邦訳p.71) 

「この文には三つもまつがいがある」の原文はThis sentence contains three rong words. 「この文には一つのまちがいがある」はThis sentence contains one wrong word. うまく訳したものだと思う*1

しかし、この文章は嘘つきのパラドクスの説明として受け入れてよいものなのだろうか。どうも納得できない。

この文を正しく読めるものにするには、このように書き換えなければならない。「この文には一つのまちがいがある。」

ここは怪しい。「この文には三つのまちがいがある」と書き換えても正しく読めるようになるわけだから、「このように書き換えなければならない」とは言えないと思う。

また、仮にこれがパラドクスなのだとしても、「まつがい」なんて単語はそもそも日本語にはないのだから、単に「この文は無意味だ」と言ってしまえば問題は片付くのではないか。曲がりなりにも有意味な語から構成されている「この文は偽である」と違って、「この文には三つもまつがいがある」を無意味とみなすことにコストはかからないと思う。二値原理はすべての文字列が真か偽の真理値をもつことを要求しない。疑問文とか、前提が隠れている文などは真でも偽でもないとみなす余地がある。引用符ぬきで無意味な表現が出現する文字列ならなおさらそうだ。

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*1:とはいえ、この翻訳がどのくらい信頼のおけるものなのかは留保しておく。「聖マタイの情熱」(p.77)という文字列を見たときはギョっとした。

対応理論

戸田山『論理学をつくる』は終盤で様相論理について簡潔な解説をしている。そこで「対応理論」という用語がでてくる(p.315)。様相論理の式とそれが妥当になるフレームの到達可能性関係の対応をあつかう理論、といったところだろうか。そこで著者が紹介しているのは、例えば

  • □P→□□P

という式(図式)が妥当になるフレームは推移的だとか

  • □P→P

が妥当になるフレームは反射的だとかそういったことである。

正直なところ、これを証明するのはかなり簡単なので、この程度のことで「理論」とか大げさだなと思っていた。しかし、次のような例をみると、「理論」というだけのありがたみを感じられる。

  • hiA → □jkA

iというのは□をi個並べるということ。◊についても同様である。こういう一般的な図式に対して、それが妥当になるフレームの到達可能性関係を一般的な形で定式化できるとエレガントである。答えは

  • wRhvwRju ⇒ ∃x (vRixuRkx)

となる。そういう定理がレモンとスコットにより証明されている*1。ちょっとばかり確認してみよう。例えば、最初に提示した

  • □P→□□P

は、h = 0, i = 1, j = 2, k = 0の場合の特殊ケースとみなせる。これの到達可能性関係は

  • wR0vwR2u ⇒ ∃x (vR1xuR0x)

ただし、w, v, uには全称量化がかかっている。これはつまり

  • w = v & ∃y(wRy & yRu) ⇒ ∃x (vRxu = x)

ということであり、さらに簡略化すると

  • ∃y(wRy & yRu) ⇒ wRu

となる。これはRが推移的だと言っているので、正しい結果が得られたことになる。□P→Pについても同じことが言える。 

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ゲティア事例

1963年の論文で、エドマンド・ゲティアは知識の古典的定義に対する反例を提出したとされる。知識の古典的定義とは「知識=正当化をもつ真なる信念(justified true belief)」というもの。通称、JTB分析である。

以後、ゲティアの反例を回避するにはJTB分析にどのような修正を施せばいいのか、ということが問題になり(ゲティア問題)、さまざまな提案がなされた。それと同時に、ゲティア以前にも似たような思考実験による反例が提示されていたのではないか、ということも話題になった。よく挙げられるのはマイノングやラッセル。たぶん彼らは、JTB分析への反例を意図していたわけではなく、知識=真なる信念、という等式への批判を意図していたのだが、後から振り返ってみると、JTB分析への反例にもなっているのでは…、というのが実情だと思われる。例えば、邦訳のあるチザム『知識の理論』3版では、マイノングの反例として、風琴が庭に置いてある家の老人が、だんだん聴力が弱りたまに幻聴を経験するようになったという状況設定で、ある日、風琴の音が聞こえて風が吹いたと信じたケースが紹介されている。

しかし、もっと最近の認識論の入門書をみてみると、ゲティア事例はインド哲学においてずっと昔に提示されていた(770年頃のDharmottaraという人)、という驚くべき話も紹介されている*1。それどころか、ゴールドマンの知識の因果説みたいなものまで考案されていたとか(14世紀のGan.geśaという人らしい)。本当かどうか調べる術が私にはないけど、「〇〇を一番最初に考えたのは誰?」という疑問には簡単に答えが出せない、といういい例だと思う。

*1:Jennifer Nagel, Knowledge, OUP.

カリーのパラドクス

自分自身を含まない集合 {x | ¬x∈x} などという集合の存在を認めてしまうと矛盾が生じる。カリーのパラドクスは、このラッセルのパラドクスとよく似ている*1。論理学では、否定命題¬Pを「P→⊥」という形で定義することがある。この定義を用いると、ラッセルのパラドクスは {x | x∈x → ⊥} という集合にまつわるパラドクスといえる。これに対し、カリーのパラドクスは {x | x∈x → A} という集合にまつわるパラドクスである。ここで、Aは任意の命題が入る。⊥も入りうるので、その場合にはラッセル集合である。この集合がパラドクスを引き起こすのは、{x | x∈x → A} という集合の存在を認めると、Aが証明されるからである。Aは任意の命題なので、任意の命題が同じ論法で証明できてしまうので、実質的には矛盾である。

実際に、Aを証明してみよう。問題の集合をXと名付け、X∈Xと仮定することからはじめてみる。X∈Xなので、Xの定義から、X∈X → Aである。X∈X → AとX∈Xから、modus ponensによりAである。X∈Xの仮定からAが導かれたので、X∈X→Aである*2。これで仮定が落ちた。さて、Xの定義とX∈X→Aから、X∈Xである。よって、modus ponensによりAである。

自己言及がこうしたパラドクスの元凶だとみなすならば、自己言及を何らかの仕方で禁じねばならない。一つのやり方(タイプ理論)は「x∈x」のような表現を文法違反だと主張すること。別のやり方(公理的集合論)は、{x | ¬x∈x} のような集合を作らせないため、包括原理などの集合に関する原理を捨てる(制限する)ことである。

自己言及は集合に関してのみ生じるわけではない。嘘つき文「この文は真でない」はラッセルのパラドクスの真理述語バージョン、「この文が真ならば、A」はカリーのパラドクスの真理述語バージョンといえる*3。真理述語に関しては「Pが真であるのは、Pときそのときに限る」という基本的な原理がある。この原理を否定するのは厳しいので、一般的には、自己言及そのものを文法違反として退ける。

カリーのパラドクスは1940年頃に発見された。カリーのパラドクスは、ラッセルのパラドクスや嘘つきパラドクスほど有名でないが、知っておく価値はある。数理論理学を勉強していると、このパラドクスは思わぬところで出没する。

例えば、レープの定理の標準的な証明はカリーのパラドクスと似ている。レープの定理とは、PAのような算術理論で可証性述語Provを定義するとき、任意のφについて、Prov(φ) → φ がPAで証明できたとすると、PAでφも証明できるという定理。いったいどの辺でカリーのパラドクスがでてくるのか。私の理解する限りでは、だいたい以下のような感じだ。

レープの定理の標準的な証明は、Prov(x) → φという一項述語を作って、不動点定理により、ψ ≡ Prov(ψ) → φ という双条件が成り立つということから出発する。ψは「この文が証明できるならφ」と言っているように読めるので、カリーのパラドクスとよく似ている。もっとも、ここからφを証明するまでの手順はずっと複雑だけれども*4

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*1:カリーのパラドックス - Wikipedia

*2:厳密にいえば、X∈Xを二回仮定しているので、このように結論するには縮約規則(contraction)を使う必要がある。

*3:このバージョンは「ギーチのパラドクス」と呼ばれることもある(三浦『論理パラドクス:論証力を磨く99問』文庫版pp.66-68)。これは、Geach, "On insolubilia" 1954に由来。

*4:これとは別の証明法は、ゲーデルの第二不完全性定理から出発する(cf. フランセーン『ゲーデルの定理』p.140)。レープの定理と第二不完全性定理は同値といってよく、実際、標準的な証明でも可証性述語に関するヒルベルトとベルナイスの可導性条件を利用することになる。

論、主義、説

哲学において特定の立場や見解を表現するとき、大きく分けて、「〇〇論」という場合、「〇〇主義」という場合、「〇〇説」という場合の三種類があるように思う。具体例としてはこんな感じだろうか。

 「〇〇論」は特定の立場や見解というより、分野全体の名称としても使われる。「存在論」「認識論」「因果論」など。

あまり自覚したことはなかったが、「〇〇論」という用語は由来がだいぶ古そうだ。勝手な想像だけど、西洋哲学が輸入されはじめた19世紀後半から20世紀初頭に造られた言葉、といった印象だ。英語で "-ism" という語尾の表現は、最近だと「〇〇主義」となることが多いように思う。まぁ「功利主義」や「マルクス主義」は他の用例よりも古そうだけど。"view" ないし "theory" は「説」と訳すのかな。「理論」と訳す場合もあるだろうけど。

上のリストは思いつくままに並べただけなので、反例にみまわれる可能性が高い。例えば、確率の frequentism は「頻度説」と訳すことが多いように思う。

定訳がない場合もある。自由論の "compatibilism" は「両立論」「両立主義」「両立説」のどれも見かける。"-ism" は「主義」と訳すのが最近の傾向、という仮説でいくなら、「両立主義」が正しい、と言えるだろうか。"skepticism" についてはどうだろう…。

"empiricism" は「経験論」と「経験主義」のどちらも見かけるが、これらは微妙に使い分けられている気がする。ロックなどイギリスの哲学者のおおまかな考え方のようなものを「イギリス経験論」とか言ったりするのかな。

全体論holism」と「全体主義totalitarianism」は原語が違うので、訳しわけ使い分けるべきなのだろう。まれに混同する人がいるけど*1

…などということを、つらつら考えていたら、次のようなページを見つけた。 

科学哲学者たちが「進化論」という用語を使うことに違和感がある.何故遺伝や生態についての研究分野は「遺伝論」とか「生態論」とよばないのにもかかわらず,進化にだけは「進化論」という用語を使うのだろうか.「○○論」には一般的な語感として,証拠もなしに自由に論じていいものだという含みがあるのではないだろうか.きちんと「進化生物学」,せめて「進化理論」という用語を使うようにして欲しいものだ*2

コメント欄もこの話題で盛り上がっている。進化生物学者が「進化論」という用語を嫌っているという話は全然知らなかったので、これはちょっとした驚きだった。ただし、科学における用法は上の考察の範囲外なので、ここではコメントを控える。

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意味論的パラドクス

嘘つきのパラドクスは「意味論的パラドクス」などと呼ばれる。真理は意味論的な述語だからそう呼ばれるのだけど、意味論的な述語は真理だけではないので、例えば、次のような意味論的パラドクスもある。 

1 = 1

したがって、この論証は妥当ではない。

論証が妥当だと仮定すると、1=1という前提が真である以上、結論は真のはず。前提がすべて真のときは必ず結論も真というのが論証の妥当性なのだから。しかし、結論が真なら、この論証は妥当ではない。よって、最初の仮定は間違いであり、この論証は妥当でない。ところが、ここまでの論証は、まさに1=1という前提のみに依拠して当該の論証は妥当でないと正しく結論づけているのだから、むしろ、この論証は妥当ではないか…。

この議論は14世紀の論理学者ザクセンのアルベルトゥスに由来する(ただし、オリジナル版では前提が「1=1」ではなく「神は存在する」となっている)*1。この人はビュリダンの弟子としされ、例えば、ワインバーグ『科学の発見』には次のようにある。

ピュリダンの研究は、ザクセンのアルベルトとニコル・オレームという二人の弟子に引き継がれた。 アルベルトの哲学書は広く読まれたが、科学に対する貢献という点ではオレームのほうが上だった。p.184

山内志朗『普遍論争』に付録の事典によると

ほぼ同時期に活躍したビュリダンに比較しても、独立にみても研究は進んでいないが、スコラ後期の論理学者としてかなり重要な位置を占め、その『論理学』は、14世紀の論理学所としては最も洗練されたものの一つとみなされる場合もある。 

ここでいう『論理学』はPerutilis Logicaという本だろう。「有益な論理学」といったところか。いかにも教科書という感じのタイトルだ。

なお、同様のパラドクスは、同時代の偽スコトゥス(Pseudo-Scotus)も論じている。アリストテレスの『分析論前書』への注釈が、ドゥンス・スコトゥスの著作と間違われたためにそう呼ばれるらしいが、何者なのかは諸説あるようだ。この人物は爆発則(EFQ)を定式化した人としても有名だ。

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現代存在論講義I

移動中の読書で、倉田剛『現代存在論講義I』(2017年)をざっと読んだ。読みやすくていい入門書。最後に読書案内も載っているのだが、分析形而上学は日本語でよめる入門書が多くていいですな。この読書案内には載ってなかったけど、アール・コニーとテッド・サイダーの『形而上学レッスン』なんかも入門書としてよかった。

『現代存在論講義I』は、この手の入門書にしては注が充実してる。大学院生・研究者向けの情報という感じなのかもしれない。文献情報など、勉強になった。

気になった箇所を二つほど。

  • マイノング主義の説明をしている箇所の注(p.68n18)で、非存在者への量化ををあらわすのに通常の「∃」だと混同を招くので「Σ」を使う、とあるけど、そうなのだろうか?それは代入量化の記号では?と思った。プリーストの本だとフラクトゥールの「S」を使っていたような。
  • p.116の「(5)は、たとえ・・・」の段落はちょっと見栄えが変。インデントのミスだろうか。

関連サイト