Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

チョムスキー雑感(2)

 以前読んだ本を久しぶりに読み返してみた。

生成文法

生成文法

 

私の場合、この本ではじめて生成文法を勉強したという事情もあって、この本には思い入れがある。といっても、正直なところ一度読んだだけではあまり理解できず、類書に当たってはじめて理解できた部分が多いのだが。今の段階でも、よくて7割ぐらいしか理解できてない気がする。

なので、amazonのレビューでは、初心者にも分り易いという意見がちらほら見られるが、それには同意しかねる。本書を入門書として使うには、かなり賢い読者を別とすれば、チューターが必要だと思う。そして、内容が割と高度であることに加えて、索引がきわめて貧弱であること、演習問題の少なさと解答がないこと*1、なども使いにくい要因になっている。

しかし、こうした弱点に目をつぶれば、本書は80年代にできあがった原理・パラメータによるアプローチのすぐれた解説を提供していると思う。敷居が少し高いものの、たしかに説明は丁寧であり、英語だけでなく日本語の例文もわりと豊富である。個人的には、ピンカーの『言語を生み出す本能』の4章を読んでから本書を読むのがいいと思う。

amazonのレビューにはかなり批判的なものもあるので、ちょっと考えてみた*2。一つ目の論点は

ジョンがメアリーから手紙を受け取った 

という例文に関して、「から」を後置詞Pとして扱い、「が」「を」を名詞の付属物として扱っている理由をめぐっている。著者が提示する理由は、「が」「を」は「は」と共起できないが、「から」は共起するから、というもの。対するレビュアーは、その主張は「が」「を」が「から」とは違う振舞いをするということしか示しておらず、「が」「を」をPとして扱わない理由にはなっていない。まぁ、そうだね。しかし、次のコメントには同意できない。

著者が書けない本当の答えは、生成文法は基本的に英語を対象とした体系であり、そして日本語と違い、英語の主語と目的語は語順で示され、Pでは示されないからというもの 

英語では格変化するのは人称代名詞くらいだが、格によって名詞の接辞が変化する言語もある。語幹と接辞をあわせて名詞とみなすのはそれほど変ではなく、日本語の「が」や「を」を接辞とみなせないことはないと思う。「が」「を」をPとして扱わないということは、これらを一切無視するということまで意味しない。

また、「が」や「を」を文から削ってもそれほど容認度が下がらないことも、文法格助詞「がのをに」を名詞の付属物として扱うことを正当化する。上の例文から「が」と「を」を削ってみる。

ジョン メアリーから 手紙 受け取った 

これは割といける。他方、「から」を削ると容認度はもっと下がる。

*ジョンが メアリー 手紙を受け取った 

 

二つ目の論点は主語助動詞倒置(Subject-Aux inversion)をめぐるもの。

『直接疑問文では、C(補文標識)のことろが空家であるから、助動詞がそこに移動することができる』


もう我慢できない。
なんで、助動詞が補文標識の位置に行くのが許容されるわけ? 

我慢しろよ(笑)。いちおう著者が提示している理由は、間接疑問文との比較に基づくもので、間接疑問文で倒置が起きないのはif, whetherがあるせいだとすれば、直接疑問文で倒置が生じるときには助動詞が補文標識の位置に移動していると考えるのがもっともらしい、といったところだろうか。もっとも、レビュアーはこの説明では納得しないだろうが。問題は、これが唯一の説明とは到底思えないから、だと思う。実際、1957年のSyntactic Structureでは、こんなことにはなっていなかったはず。変形規則[移動]を適用する前と後で構造が変わらないようにするための工夫をする内にこんなことになったんだと推測するが、生成文法の歴史をみないことには、こんな説明がなされるようになった正確な経緯は分からないんだろうなぁ(私もよく分からない)。p.49に載っている文献を調べるのが早道かもしれない。

*1:Yahooの知恵袋で、本書の演習問題の解答を求めている人がいた…。英語学のBinding Theoryについての質問です。 - Look at your... - Yahoo!知恵袋 ベストアンサーがひどすぎる…。

*2:Amazon CAPTCHA

蒼き狼と白き牝鹿IV

『チンギスハーン:蒼き狼と白き牝鹿IV』(光栄1998)という古いゲームをやり直している。子供の頃は、とにかく強い将軍を集めて都市を征服するのが楽しかったが、今は街道や港といったインフラを整備するのがとにかく楽しい。例えば、都市AからBへの街道がすでにあっても、より短い街道をわざわざ作っている。街道といえば、藤子F不二雄の傑作『T・Pぼん』にある「ローマの軍道」というエピソードを連想する。古代ローマの繁栄の基礎となったのは街道であるという結論になっているのだが、いま自分が『チンギスハーン』でやってることは、アッピア街道を作ったアッピウス将軍と同じ境地に達したということか…。

以前プレイしたときは攻略サイトをまったく観なかったのだが、攻略情報を仕入れてみるといっそう楽しめる部分もある。隊商を大量に送り出して敵国の都市を取り囲んでユニットを出せなくするとか、まったく気づかなかった攻略法だった。このゲームはかなり難易度低めのヌルゲーなので、そんなえげつないことをやってしまったら、ますます簡単になってしまうが。適度な難易度にするには、騎兵が弓を使うのを禁止するとか、投石器や大砲のユニットを禁止するとか、一定の制限を課す必要があるくらいだ。国王の王族の数も制限しがほうがいいかもしれない。医学の都になると妊娠確率が100%になるので、王族のユニットを量産できてしまう。まぁ、実在したモロッコ皇帝イスマイルのギネス記録を超えるのを目標にしてもいいかもしれないが。毎ターン4人くらい子供をもうけたとしても、800人を超えるには何年かかるんだろう…。

教養がついて楽しめるようになった部分もある。『チンギスハーン』には哲学者のトマスやオレーム、詩人のダンテ、科学者のベーコンやトゥーシーが「将軍」として登場する。こういった人文系の人々は戦闘向きではないので、子供の時にはまったく注目していなかった。ちなみに、イスラム学者の名前はちょっと一貫性がなかったりもする。アヴェロエスはラテン名の「アヴェロエス」ではなく「イブン・ルシュド」で登場するが、マイモンデスは「イブン・マイムーン」ではなく「マイモニデス」というラテン名で登場する。

なお、実在する人物だけでは将軍の数があまりにも少ないので、『チンギスハーン』に登場する人物の大半は架空の人物である。架空の人物の命名システムを詳しく解説しているサイトがあって驚いた*1

やはり古いゲームは年とってからやり直してみるものだね。

チョムスキー雑感

チョムスキーは毀誉褒貶の激しい人で、言語学者の中にも彼を毛嫌いする人は多い。それにしても、チョムスキーを嫌っている言語学者が、チョムスキーについての入門書を書いていたりするのは理解しがたい。例えば、田中克彦チョムスキー』とか町田健チョムスキー入門』など。これらはネットで調べた限りすこぶる評判が悪い。なぜ自分が嫌ってる対象・分野についての入門書をわざわざ書くのか…。

構造主義者のチョムスキー批判は誤解に基づくことが多いのであまり参考にならない。たとえば、ソシュール研究者の丸山圭三郎が書いた新書『言葉と無意識』にこんな箇所がある(pp.153-155)。

表層、深層という用語を使うアメリカの言語学者N・チョムスキーが言葉の表層的研究にとどまる典型であることは皮肉な話である。彼にとっての深層とは、[…]観念の領域であり、これを表層に顕在化したのが物質ということになる。しかし、観念ほど表層的ロゴスの産物はないであろう。彼は意識の表層を物質と観念に二分して、後者を深層と考えるだけのホリゾンタルな思考からぬけ出してはいないのである。

[…]

したがって、チョムスキー生成文法は、生成とか深層と言っても、所詮は一切の分節に先立って存在するスタティックな精神的鋳型の仮説に過ぎない。そしてこの仮説こそ、チョムスキーが信奉するもう一人の哲学者・デカルトが受け継いだ西欧形而上学の伝統<主/客>の枠組であり、近くはドイツ観念論の主体=精神という図式であることが容易に見てとれよう。

何を言っているのかよく理解できないのだが、チョムスキーは「生成」とか「深層」という言葉を俺が興味深いと思う意味では使ってない、という程度の批判でしかないように思える。チョムスキーが意図している[と丸山が考えている]「深層」の用法は、チョムスキー自身が念頭に置いているであろう用法とは重ならないからだ。

後年のチョムスキーは「表層構造」と「深層構造」は彼の文法理論のテクニカルタームであって特に深遠な意味をもたないことを強調している。素人が書いた文章では「深層構造」を「普遍文法」に置き換えると意味が通ることが多いと言っている*1。この方針は実際、多くの場合うまくいく。私が気づいた例を挙げると、

「文の理解は根底にある基礎的な構造(深層構造)によってなされ、人間間の言語による相互理解も可能になるのである」(中村雄二郎『術語集II』p.102)

「チョムスキイによれば、人間の言語活動には無意識的で普遍的な深層構造が存在し、これから各言語に固有の返還規則を通過して、個別の言語現象が表層構造として表れる、と言う。この深層構造が人間に普遍的な「言語能力であり、これは、先験主義そのものである」(上野千鶴子構造主義の冒険』p.193)

などがある。ただまあ、チョムスキーは新しい用語を導入するのがあまり器用でない人、という印象はある。「深層構造」が典型的だが、他にも誤解を招きやすい用語があるんじゃないかと思う。ピンカーも、「主題役割thematic role」は主題とは大して関係ない、とか言っていたと思う。

*1:生成文法の企て』p.46

100分de名著「永遠平和のために」

この番組、興味のある本が取り上げられたときは視聴するようにしている。8月はカント「永遠平和のために」が取り上げられてるので、哲学の徒として一応観た。講師は気鋭の論客・萱野稔人氏。

この番組は25分×4回 = 100分という構成になっている。第1回目でさっそく、デリダはカントの「永遠平和のために」を典拠にして移民を歓待しようとか言ってるけどカントそんなこと言ってないから、と一蹴。フランス帰りの人がフランス現代思想の大御所を叩いているというのがポイント高い。1145141919点をあげよう。まぁ、このデリダ批判がどのくらいフェアなのかは知らないけど。

twitterを見たところ、分かりやすかったという好意的な声が多そうだ。しかし、個人的にしっくりこなかった箇所がとりあえず二点あった。

嘘をついてはいけない

定言命法は「カテゴリカル」というからには無条件に、どんな場面であってもそれは守らなければならない。「嘘をついてはいけない」も無条件に守られねばならないので、例えば、夫からのDVに耐えかねて家を飛び出した女性をかくまったら、しばらくして夫が尋ねてきて妻の居場所を聞かれたら、正直に答えないといけない。善意によって嘘をついてもよさそうだが、それは駄目なのだ、と。少なくとも第1回で萱野氏はそう言っていたと思う。

しかし4回目で再びこの話題に戻ってきたところでは、道徳とは無条件に従われるべきもの、という形式的な特徴づけから出発するのがカント哲学であり、内容から出発するのではない。形式から出発するなら、必ずしも「嘘をついてはいけない」という道徳規則が出てくるわけではない、と言われていた。うーん、すると結局「嘘をついてはいけない」は普遍化可能ではなく、そんな道徳規則はないと萱野氏じしんは考えているんだろうか。あるいは、カント解釈としてそれでいいと考えているんだろうか。

この話題について私はあまり考えたことがないのだが、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』では、もう少し凝った議論がなされていたと思う。サンデルは「嘘をついてはいけない」は例外なく守らねばならない規則として認めた上で、DVのようなケースに直面しても抜け道を探すような方法を提案する。すなわち、真っ赤な嘘をつくことと*1、相手を誤解させるようなことを言うことを明確に区別し、前者は道徳的に許されないが後者は許される、とする。戸をたたいてきた夫に対しては「一時間前にスーパーで見かけました」と言うとか、話題をうまく擦り替えて切り抜けるのだ。このとき、自分が信じていないことを主張するという意味での嘘はついていない。自分が信じていることを言っているが、相手が勝手にミスリードされるだけ。まぁ、サンデルはクリントンの例(セックスはしていない、オーラルセックスは定義上セックスではないから)とかも引いて、ミスリードさせるのも道徳的に微妙かもね、という余地を残しているけど。

パイを公平に分ける

第4回では、強欲な悪魔たちであっても争いごとを起こさずにケーキを切り分けることができる、という話がなされた。ケーキを切る悪魔がみんなの前でケーキを等分し、自分は一番最後にケーキを取る、というルールを設ければ公平に分けられる、そしてこういう形式的なルールは外から押し付けられなくても、全員が自発的に同意できはずだ、と言われる。

この話はどうも納得できなかったが、少し考えてみて、ここでいう悪魔には幾何学的な意味でケーキの体積を等分にできる能力があるという仮定をおけば、その方法でも公平に分けられるのか、と思った。そんな能力をもたない人間の場合、例えば、三人のうち一人が三等分して一番最後に取る、というルールを設けても、じゃあ残った二人のどちらが先にケーキをとるのかが問題になってしまうと思われる。完璧に等分できる悪魔だからこそ、残りの悪魔たちも文句をいわず同じ大きさのケーキをひとつ取ることができる。もしこの理解でいいのだとすれば、悪魔という設定は強欲さを強調するためではなく、人間にはおよそ不可能な切り分け能力を帰属するためのものではないか、と考えてしまう。でも萱野先生たぶんそんなこと考えてないよね。

関連記事

*1:「ガイア幻想記」でカレンが兵士に嘘をつくときに、フォントが真っ赤になるという演出があったのをまねてみた。

不思議の国のアリス(2)

こんな本が出ているのを知った。

『不思議の国のアリス』の分析哲学

『不思議の国のアリス』の分析哲学

 

個人的には、使用と言及の区別についての解説が印象的だった。例えば

  • 昨日は、一日前は今日だった

は一見正しそうだが、昨日は一日前であっても昨日のはずで、正しくは

  • 昨日は、一日前は「今日」と呼ばれていた

と言わねばならない。アリスはこの二つを混同したため、言い負かされる。

別の例。白い騎士がアリスにある歌を聞かせようとする場面。騎士はアリスを煙に巻くようなことを言い立てる。色々はしょって整理すると

  • この歌は「ゲートの上に座っている」という句を含む。
  • この歌の名前は「年とった年とった男」である。
  • この歌は「方法と手段」と呼ばれている。
  • この歌の名前は「コダラの両目」と呼ばれている。

の4つを騎士は厳密に区別するのだが、アリスはついていけないようだ。八木沢先生は特に2番目と3番目の区別について解説を加えている。名前と違った言葉で呼ばれるものはいくらでもある。例えば、「マクベス」と舞台の上で口にすることは不吉なので、シェークスピアマクベスのことを「スコットランドの劇」と呼ぶ習わしがある。あるいは、八木沢先生は授業中に眠そうにしている学生を "Mr. Happy Sleeper"とからかって呼ぶそうだが、そんな名前の学生にお目にかかったことはない、と。しかし、個人的にはむしろ、4番目こそが異常に思える。名前を別の言葉で呼ぶって、どういうシチュエーションなんでしょうか…。

ところで、ざっと見たところ、この本の前半は、わりと『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』に出てくる論理パズルに寄り添って、分析哲学の技法を解説している本、という体裁になっているのだが、終盤になると、アリスはどっかに言ってしまって、普通に分析哲学の話をしている、という体裁になっている気がする。

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Postscript (2021-04-17)

現代思想』(1985年)のウィトゲンシュタイン特集号に所収のジョージ・ピッチャー「ウィトゲンシュタイン、ノンセンス、キャロル」というエッセイが、ウィトゲンシュタインとの関連で、ルイス・キャロルの作品中に出てくる様々なナンセンスの具体例を紹介していることを知った。上の記事であげた例も登場する。このエッセイは辞書的に使えそう。

哲学がかみつく

 有名な哲学者にインタビューした本は色々あって、翻訳もでている。最近、こういう本を見つけて図書館でパラ見した。

哲学がかみつく

哲学がかみつく

  • 作者: デイヴィッドエドモンズ,ナイジェルウォーバートン,David Edmonds,Nigel Warburton,佐光紀子
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2015/12
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (2件) を見る
 

インタビューなので概して平易だと思うけど、ところどころに致命的な誤訳がある。"the scientists were serious realists about the observable world." が「科学者[デカルト、ボイル、ニュートンら]は目に見えるものしか信じませんでした」となっていたり(p.136)。また、"So this diagnosis says that the sceptical conclusion that we don’t know anything about the world rests on a faulty or unjustified assumption" が「だから、われわれは世界のことを何もしらないという懐疑的な結論は間違いです」となっていたり(p.151)。ストラウドがそんな簡単に懐疑論論駁を認めるわけがない。

また、訳者が哲学については門外漢のため、訳語の選択には難がある。例えば、moral realismの話をしている箇所で、realistを「現実主義者」と訳しており、quasi-realistは「上辺だけの現実主義者」となっている。道徳的性質の実在性が問題なので、やはり実在論者がよいと思う。さらに、「現実主義社」となっている箇所すらあり(p.48)、編集者の校閲も十分に行き届いていない感じがする。

ちなみに、原著の末尾には読書案内のリストがあって、邦訳があるものは併記してあるのだが、クーンの『科学革命の構造』は邦訳があるのに記されてなかったりする。この翻訳はあまり評判がよくないのだが、それを踏まえているのだろうか(考えすぎか)。実際、amazonのレビューか何かでも指摘されてたけど、「発見の文脈」と「正当化の文脈」にとんでもない訳語が当ててあったのを覚えてる。

あと、図書館で読んだから関係ないけど、この本2800円とお値段が結構高い。

逆バーカン式

飯田隆言語哲学大全3』を読み返してて思ったこと。量化様相論理を解説している節で、最初に真理値ギャップを認める意味論が紹介されている。この意味論で、特に、必然性演算子の真理条件を

  • □φがwで真 iff wRvとなるすべてのvで、もしφがvで真理値をもつなら、φはvで真

という風に定めると、逆バーカン式が妥当式になる気がする。

ふつう、逆バーカン式が妥当であるための必要十分条件は、量化のドメインが単調性をみたすことだと思うのだが、それは真理値ギャップを追放している場合の話で、この意味論ではそうなってないと思うのだ*1。というのも、∃x◇φ → ◇∃xφ の反例モデルを作ろうとしたら、wでは◇φのインスタンスがあるのに、wRvとなるどっかのvでは、wで◇φのインスタンスとなった個体が存在しない、というモデルをつくることになるが、この意味論では、「wで◇φのインスタンスとなった個体が存在しない」なら、φはvで真理値をもたないので、こういうモデルは反例モデルにならない。

この結果がちょっと面白いのは、この意味論のもとでも、バーカン式が妥当である必要十分条件のほうは、量化のドメインが反単調性をみたすことであるということ(p.126)。この非対称性は(慣れないせいか)どうも気味が悪い。

それはともかく、飯田先生は、この意味論の問題点として、□φ→φが妥当でなくなることを指摘している。wでφが真理値をもたなければ、たとえフレームが反射的だとしても、この式は妥当にならない。そして、この問題点を克服するには、量化のドメインが単調性をみたすことを要求するのが自然だが、その場合、フレームが対称的だとすれば、量化のドメインは反単調性もみたすことになり、すべての可能世界で量化のドメインが同一になってしまうだろう。飯田先生はこのように指摘して、真理値ギャップを追放する路線の紹介に移っている。

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*1:ドメインの単調性は∃x□φ → □∃xφ の妥当性と同値になる。この式はGhilardi Formulaと呼ばれる。