Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

漱石と近世哲学

夏目漱石が哲学に造詣深かったという話はちょくちょく耳にするが、実際、小説の中でも博覧強記っぷりを披露してる。最近知った箇所を二つほど紹介してみる。

三四郎』の冒頭で三四郎が鞄の中から「読んでも解らないベーコンの論文集」を取り出して読むというシーンがある*1

底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読​
んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴である。…三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどはむろん読む気にならない。けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、満遍なくページ全体を見回していた

当時の学者がベーコンを重要人物として扱っていた様子が分かる。ちなみに、「ハムレット」などの文芸協会の演芸会の場面があることから、『三四郎』の舞台設定は1907年(明治40年)と推定されるとのことである。*2

また、『吾輩は猫である』にはデカルトへの言及がある*3

デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。

引用先のサイトによれば、漱石が『吾輩は猫である』を出した時点で、デカルトの『方法序説』訳は1冊、前年の1904年(明治37年)に出版された桑木厳翼訳(『デカルト(世界哲學文庫 第一篇)』に含む)だけだった。漱石はこの翻訳でデカルトを読んだのかもしれない。あるいは、ロンドンで英語版を読んでいたのかもしれない。

関連記事

*1:ベーコン『随想集』(中公クラシックス)解説

*2:竹内『教養主義の没落』p.90

*3:夏目漱石のデカルト理解 - デカルトの重箱

現実性オペレータ(2)

現実性オペレータを言語に足しても、もとの言語で表現できない内容を表現できるとは限らないという先の話だが、少なくとも量化を含む言語では話が違ってくるらしい。例えば

  • 現実には存在しない対象もまた存在することができた

という文は

  • ◇∃x@∀y x≠y

と書けるが、@を使わないでこれと同値な式を書くことはできないらしい*1。あるいは別の例として

  • 現実に金持ちであるすべての人が貧乏であることもありえた。

いう文は、一見すると

  • ∀x(Rx  → ◇Px)

などと書けそうに思えるが、これだと現実の金持ちが貧乏であるような可能世界がてんでバラバラであっても真になる。元の文は、現実の金持ちが全員、どっかの同じ可能世界で貧乏であることを要求している。それを表現するには

  • ◇∀x(@Rx  → Px)

と書くほかないらしい。 

*1:cf. 飯田隆言語哲学大全3』p.250n91

現実性オペレータ

標準的な様相論理の言語に、現実性オペレータ@を付け加えると、色々ふしぎな結果が得られるという話。

構文論は、φがwffならば@φもwffとする。意味論は、標準的な様相論理の言語ではモデル<W, R, V>と相対的に式が評価されるのに対し、@を付け加えた場合には、例えば、<W, w@, R, V>というモデルを考える。w@はWの要素で、現実世界に対応する。モデル<W, w@, R, V>において、世界wで@φが真であるのは、このモデルにおいて、w@でφが真のとき。論理的真理の定義は、あらゆるモデルのw@で真のとき、とする。

この意味論では、

  • p ≡ @p

は論理的真理なのに

  • □(p ≡ @p)

はそうではない、といったことがおこる。w@でpは偽だが、w@Rwとなるような世界wでpが真なら、□(p→@p)はw@で偽になるからだ。そういうわけで、現実性オペレータを付け加えた言語では、必然化規則が成り立たない上に、そもそも論理的真理が必然的に真ではないことになる。これは先に言った「ふしぎな結果」の一つ*1

しかし、p→@pや□(p→@p)はもとの言語では表現不可能な真理条件的内容を表現しているのか、というとそうでもないらしい。なぜなら

  • (p ≡ @p) ≡ (p→p)
  • □(p→@p) ≡ (◇p→p)
  • □(@p→p) ≡ (p→□p)

が証明できるから*2。なんだ、現実性オペレータなんて無くてもよかったんか…。

*1:現代哲学では、アプリオリな偶然的真理の有力候補とされる。

*2:まぁ、両辺の式は真理条件的内容が同じといっても、同じなのはいわゆる一次内包であって、二次内包は異なるわけだが。

生存圏

ナチス・ドイツの戦争目的は、ゲルマン人のための「生存権Lebensraum」を確保することであったとされている。すなわち、一つの「人種」、最も純粋であるとみなされた一つの民族が、そこにおいて安全に生存・存在しうる空間を確保しなくてはならない、とされたのである。だが、この戦争への衝動は、さまざまな意味で不可解である。そもそも、一定の公認の領土をすでに所有している民族の存在のために、あえてその領土の外部に、侵略的な仕方で空間を獲得しなくてはならないのはなぜなのか*1

最後の疑問に対する手がかりを得るには、第一次大戦の飢餓体験に遡る必要があると思う。戦争の長期化とイギリス海軍による海上封鎖のため、ドイツ帝国では生活物資や食料は底をついた。戦争3年目の冬は「カブラの冬」といわれ、栄養失調で亡くなったドイツ人は30万人にのぼった。厭戦機運がたかまりストライキがおきた。第一次大戦における餓死者の数は、第二次大戦において空襲で死んだ人間の数よりも多いという。これほど強烈な飢餓を経験したものだから、ドイツは固有の領土だけでは住民を養うことができない、もっと農地が必要だという考えが生じてもおかしくない。第一次大戦後には東プロイセンの農地の大部分を失ったのだから、「生存圏」への渇望はなおさらだっただろう*2。もちろん、こうした利己的な拡張政策は、ヨーロッパの他の諸国にとっては侵略でしかないので、ヒトラーは生存圏の確保を目指しながら実際には自国を危険にさらしただけだったが、ヒトラーと彼を支持したドイツ人にとって、生存圏の確保はそういう理屈では片づけられないない至上命題だったのかもしれない。よって彼らが、ウクライナの穀倉地帯を確保しようとしたのは不思議ではない・・・。

こういう説明は、私には筋が通っているように思われるのだが、もちろん、これは大澤が提供している説明とは異なる。大澤は、当時のドイツが置かれていた状況をほとんど考察しないまま、1937年の秘密会議でヒトラーが言ったとされる、中東欧に「民族なき空間volkloser Raum」が必要だ、という言葉に問題の手がかりがあると断定し、民族の生存圏が民族なき空間だとか、救済が同時に破滅でもある逆説だとかいった抽象論に終始している*3。「民族なき空間」という表現がホスバッハ覚書のなかのどういう文脈で使われているのかすら説明しないで推測を述べられても、こちらは困惑するしかない*4

*1:大澤真幸『文明の内なる衝突』p.41, cf.『ナショナリズムの由来』p.784

*2:cf. リチャード・ベッセル『ナチスの戦争』p.81

*3:「領土が欲しいから戦争をも辞さないという方針に立っていたというより、戦争へと相手を誘惑するためにこそ、不合理な要求を出していたとすら見える」『ナショナリズムの由来』p.686。ヒトラー本人の心理がどうだったのかはともかく、大澤は、ヒトラーには当てはまるかもしれない事柄をナチスあるいはドイツ全体に過度に一般化する傾向にある。

*4:若い世代の社会学者にとっても、大澤真幸は「作家」であって彼の書き物には「実証性」が欠けている、という評価のようだ。宮台真司ほか『システムの社会理論』p.245

EFQ

タブローで、矛盾からは何でも言えるということを証明するにはどうするのか、という質問を見かけて、それは考えたことなかったなと思った。言語が⊥を含むかどうかで場合分けすればよいのだろうか。

  • ⊥を論理記号に含む言語の場合:⊥に関する推論規則として、すぐに枝を閉じるという規則を加える。EFQの証明図では、根にいきなり⊥が現れるので、速攻で枝を閉じて終了。
  • ⊥を含まない言語なら、¬(P∧¬P→Q) から出発して枝が閉じることを証明する。¬→の規則を適用するとすぐにP∧¬Pが出てくるから、枝が閉じて終了。

⊥を含むかどうかで、二通りに分岐するってのは何か意味があるのかもなぁ。例えば、シークエント計算の場合、EFQを示すには右の弱化規則が本質的な役割を果たしそう、ということは前に述べたことがあるが、これは⊥を含まない言語の話で。⊥を含む言語だったら、EFQは公理に加えるんだと思う。ここでも⊥を含むかどうかで分岐がある。

フィッシュ『知覚の哲学入門』

知覚の哲学入門

知覚の哲学入門

 

 amazonのレビューを見たら、翻訳がけなされていたので原文に当たってみた。意味がとれない箇所として例に挙げていた箇所は

知覚経験は典型的には意識経験である。それは現象学をもつ。p.2

レビュアーは「典型的な知覚経験は意識経験(意識としての/における/を介しての経験?)である。それは現象学的考察の対象となる」といった意味なのだろうか、と記している。

この箇所に対応する原文は次のようだ。

Perceptual experiences are paradigmatically conscious experiences: they have a phenomenology [...]

たしかに、1文目の訳はひょっとすると少しまずいのかもしれない。私なら「知覚経験は意識経験の典型例である」とか訳すかもしれない。ただ、2文目の訳は直訳したらそうなるんだから仕方ないのでは、という気がする。「現象学」はフッサールとかの現象学とはほとんど関係ないので、「現象学的考察」などと言い換える必要もない。じゃあ、どういう意味なのよ、と思う向きもあるだろうけど、[...]以下が言い換えというか説明になってるので、著者は何も説明していないで用語を使っているわけではない。

ちなみに、この邦訳に関して、私はもっと別の箇所で気になることがあった。

アーヴィン・ゴールドマンの論文"Appearing as Irreducible in Perception" (Goldman 1971)は [...] p.94

原文では"Alvin Goldman"ではなく"Alan Goldman"となっている上に、論文の出版年も1971年ではなく1976年である。どういう理由でこういう訳になったのかの経緯が気になる。

乳糖不耐症

乳糖不耐症(lacrose intolerant)は乳製品に含まれるラクトースを消化するラクターゼ酵素(lactase enzyme)が生成されないために身体の不調が生じる体質のことをいう。いわゆる乳製品アレルギーとは異なる。

乳糖不耐症は異常ではない。まず、人類の半数以上は乳糖不耐症である。母乳を必要とする幼児期を過ぎると、ほとんどの哺乳類は乳糖を分解するラクターゼ酵素を生成する遺伝子がオフになるのだ。しかし、人類は少なくともこれまでに二回、この遺伝子がオフにならないという突然変異を経験した*1。牧畜を営み、乳製品を摂取する北欧人などでは、このことは有利に働いた。そこで、少数派ではあるが一部の人々は大人になってもラクターゼを生成することができるのである。

このように言うと、人類の半数以上は乳製品を摂取すると体を壊すのか、と思ってしまうが、実際には、乳糖不耐症であってもほとんどの人々は慣れによって牛乳を飲むことができる(大量に摂取すると腹を壊すだろうが)。ごく軽度であっても乳糖不耐症に分類されるので、乳糖不耐症の割合は多く見積もられている。

グレゴリー・クラークは、かなりの長期にわたって東アジア(インド・中国・日本)はヨーロッパに比べて生活水準が低かった、ということを論じる中で、その証拠の一つとして、乳糖不耐症の分布に注目している*2。彼のおどろくべき議論は以下のようだ。まず、動物の乳が大量に消費できるようになるのは、農耕が始まって動物が家畜化されてからだろう。ところで、カロリー摂取には穀物の方が効率がよいので、所得が少ないと乳製品は口にできないはずである。ヨーロッパ北西部の人々は乳糖を消化するための変異遺伝子を持っているが、中国人は定住農耕の歴史が長いのに乳糖を消化できない。よって、中国では牛乳が主要食品になることはなく、生活水準は概して低かった、と。しかし、乳製品を摂取することは高い生活水準の要件なのだろうか?*3

*1:この突然変異は過去1万年の完新世に生じた。ふつう現代人の進化は更新世に生じたとされ、完新世に新たな適応の獲得があったかどうかは、この乳糖耐性の獲得をほぼ唯一の例外として、はっきりしない。cf. カナザワ『知能のパラドックス』p.315f

*2:『10万年の世界経済史』3章

*3:Amazon CAPTCHA