Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ワニのジレンマ

河岸で人食いワニが子供を人質にとり、子供の親に「自分がこれから何をするか言い当てたら子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、親が「あなたはその子を食うでしょう」といったらどうなるか。

これは自己言及のパラドクスの一種としてよく知られている。wikipediaにはルイス・キャロルが発表したと書かれているが、田中一之『山の上のロジック学園』ではこれを古代ストア派のクリュシッポス作だとしている(p.59)。

調べてみたところ、2世紀頃の風刺作家ルキアノスが、このジレンマをクリュシッポスに帰している文章を書いていることがわかった。ルキアノスは第二次ソフィスト思潮を代表する作家のひとりとされる。京都大学出版会から出ている『ルキアノス全集3 食客』に「哲学諸派の競売」という短編がある。この短編は、著名な哲学者たちが奴隷として競売にかけられ、買い手の関心を引くべく自分たちの博識やら機知を披露させられる、という恐ろしい話なのだが、そこでクリュシッポスがワニのジレンマの話をしている(p.50)。

クリュシッポス さあ考えてくれ。君には子供がいるかね。

買い手 いったい何だ?

クリュシッポス その君の子が河のほとりにいるところを鰐が見つけてこれを捕まえ、君が本当のところをいい当てれば−というのは子供の返還について鰐がどう考えているのかということだが−子供を返すと約束した場合、君は鰐の意中をどう忖度するかね。

買い手 答えにくい質問だな。どちらをよしとして返答したものか迷うからな。いやお願いだ、答えを明かしてうちの子供を救ってくれ、鰐が子供を飲み込む前に。

残念ながら、クリュシッポスはこの依頼をスルーして別の話を初めてしまう。

それにしても、この自己言及のパラドクスやその後に出てくるパズル(エレクトラなど)は、一般にはメガラ派のエウブリデスに帰属されるし、そもそも二値原理を支持するクリュシッポスには都合の悪い例ばかりなのではないか、という気がする。でも、ディオゲネス=ラエルティオスの『列伝』7巻187節とかでも、クリュシッポスは角のない人のパラドクスを提示したことになってるんだよね。どういうことなんだろうか…。

ルキアノスの短編はルネサンス時代に蘇り、15世紀のローマやヴェネツィア、ミラノの各地で翻訳出版され、ラブレーエラスムスに影響を与えたとされる(訳者解説を参照)。なお、ワニのジレンマと類似したパラドクスとして、17世紀初頭に書かれた『ドン・キホーテ』に出てくる絞首刑のパラドクスがある*1

ある国の法律が、その都市に入りたいと望む者は全員、そこでの要件が何であるかを述べるよう求められる、と定めている。正直に答えたものは、その年に安全に入り、安全に立ち去ることが許可される。偽って答えたものは、絞首刑に処せられる。では、要件を尋ねられた時、「私は絞首刑になるためにやって来ました」と答えた旅行者には、一体何が起こっただろうか*2

セルバンテスは、ルキアノス経由でこの話を知ったのだろうか。それとも、同じようなパズルは中世後期にビュリダンあたりがすでに論じていて、知識人の間では広く知られていたのだろうか。

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*1:追記:出典箇所を調べてみた。岩波文庫ドン・キホーテ 後篇(三)』第51章pp.33-38

*2:セインズブリー『パラドックスの哲学』p.299

ゴットの推定

Gottの推定を解説する上の動画をみて、「これどっかで読んだことあるような」と思い、しばらく本棚を探したところ、三浦俊彦『論理パラドクス 勝ち残り編』で「デルタt論法」という名称で紹介されているのを見つけた(pp.203-205)。

そして、原論文はこちら:

1993年のNatureに掲載された論文とのこと。最初だけ少し読んでみたところ、築8年のベルリンの壁をみて、いつ壊れるかを推定するという話は冒頭に出てくるのだね。

ニューカムの問題

ニューカムの問題(ニューカムのパラドクス)は、リバーモア放射線研究所の物理学者であるウィリアム・ニューカムによって考案され、ロバート・ノージックとマーティン・ガードナーの紹介によって有名になった、とされる。しかし、考案者のニューカム博士という人物は何者なのだろうか。

ウィリアム・ニューカムが何者かはわからない。そもそも、このような名前の人物は実在していなかったかもしれない。というより、「ウィリアム・ニューカム」は、実は、政治哲学者のロバート・ノージックの仮名のようなものである可能性が高い。というのも、ニューカムのパラドクスを最初に記したのは、ノージックで、彼は、その際、「出典」として虚構の文献を挙げているのだ。*1

これは本当だろうか。wikipediaにはいちおうニューカムの記事が作られているのだが、

1999年5月に死んだとか、曽祖父は著名な天文学者だとか書かれているが、これも全部でっちあげなのだろうか。

ノージックの元の論文は、ヘンペルの献呈論文集に収められているが、

論文末尾には次のような注意書きが添えられている。

It is not clear that I am entitled to present this paper. For the problem of choice which concerns me was constructed by someone else, and I am not satisfied with my attempts to work through the problem. But since I believe that tho problem will interest and intrigue Peter Hempel and his many friends, and since its publication may call forth a sotution which will enable me to stop returning, periodically, to it, here it is. It was constructed by a physicist, Dr. William Newcomb, of the Livermore Radiation Laboratories in California. I first heard the problem, in 1963, from his friend Professor Martin David Kruskal of the Princeton University Depaftment of Astrophysical sciences. I have benefitted from discussions, in 1963, with William Newcomb, Martin David Kruskal, and Paul Benacerraf. since then, on and off, I have discussed the problem with many other friends whose attempts to grapple with it have encouraged me to publish my own. It is a beautiful problem. I wish it were mine. 

この文章を見る限りでは、虚構かどうか以前に何らかの文献を参照している感じがしないのだが…。

*1:大澤真幸『思考術』p.128n6

ルイセンコ

科学史や科学哲学で有名なルイセンコ事件について紹介してみる。

ソ連生物学者トロフィム・ルイセンコはウクライナに生まれた。1928年の論文で、ルイセンコは秋まき性の植物を低温処理すると早めに出芽する「春化」を報告し、これを低温処理によって秋まき性の植物が春まき性に変化したと解釈し、ラマルク的な獲得形質の遺伝を支持した。これだけなら異端の生物学者ということで話は済むかもしれないが、ルイセンコはスターリンの公認を得ることで、メンデル遺伝学を支持する研究者を権力を用いて弾圧した。ニコライ・ヴァヴィロフなど第一線の研究者が粛清された。

分かりやすい教訓としては、何が正しい科学的仮説なのかを決めるのは科学者(が行う実験)であり、政治的な権力者であるべきではない、といったところだが、これだけだと常識の再確認でしかない。もう少し掘り下げて考察しよう。

まず、春化vernalizationという現象じたいは(STAP細胞などと違って)でっち上げではない*1。高校生物の教科書にも載っているように、例えば、秋まき小麦の種子を春先にまくと成長するけど花芽を形成しないのだが、発芽させてから低温処理をして春先にまくとちゃんと花芽を形成してくれる。まるで春まき小麦みたいだ、ということになる。

実際には、ルイセンコは春化の発見者ではなく、1918年頃にドイツの科学者ガスナーがすでに観察していた。ルイセンコの独自性は、獲得形質の遺伝の証拠として解釈した点にある。しかし、春まき小麦と秋まき小麦は別種の植物であり、低温処理によって秋まき小麦が収穫量の多い春まき小麦になるわけではなく、寒冷に強くなるわけでもない。春化処理した秋まき小麦から得られた種子を何もせずに翌年の春先に蒔いても収穫は望めない。

教科書にもあるように、植物の発芽や花芽形成の条件には日照時間や温度などが関わっている。春化は環境の変動に対する植物の適応能力を利用した手法とみなせる。

春化には有用な側面もある。春まき小麦より秋まき小麦の方が収穫量が多いが、シベリアのように寒い土地では秋に種を蒔いても寒すぎたり雪が積もったりで収穫できないことがある。春先に収穫量の多い秋まき小麦を蒔けるなら、それに越したことはないように思える。

それにしても、なぜスターリンはルイセンコ説を公認してメンデル的な遺伝学を禁止したのだろうか。この疑問は、氏と育ちの対立と関係している。社会主義者の信条としては、あらゆる社会的不平等は抑圧的な環境に起因するので、不平等が遺伝的に決まっているなんてありえない、ということになるのかもしれない。もっとも、1920年代後半までソ連優生学を支持しており、社会主義と遺伝学の関係はそれほど単純ではないはずだが、ともかく1930年代からはメンデル遺伝学への風当たりは極めて強くなった。

ルイセンコは平等主義を植物にまで適用したと言える。彼は春化に関する説のほかにも、同種の生物どうしは競争せず生存するために協力し合うという「種の生命の法則」を唱えた。「種内競争」も高校生物で習う概念だが、ルイセンコの説はことごとく現代の常識に反しているという印象が否めない。ちなみに、種間競争に関して、同じようなニッチを占める生物種は排除しあうという競争排除則を提唱したソ連の科学者ガウゼは亡命を余儀なくされた。

第二次世界大戦後、ソ連ではシベリアの広大な土地に何百万本もの木を植林する自然改造計画が立ち上がった(ショスタコーヴィチの「森の歌」はこの事業にあわせて作曲された)。このとき、ルイセンコは種の生命の法則に基づいて農民に種や若木を密植させたため、若芽や若木はすべて死滅したという*2。戦後のソ連の自然改造計画というと、他にもアラル海を干上がらせたことなどで知られているが、ロクなことがなかったのではないかと思われる(同時代の西側先進国でも公害が問題になっていたとはいえ)。

ルイセンコの活動は、科学者の粛清をもたらしたというだけでなく、普通の農民たちにも実害を与えた。彼の農法は非科学的だったので、農産物の生産量の見通しを大きく誤らせることになった。ソルジェニーツィンによれば

1934年、プスコフの農業技師たちは雪の上に麻の種子を播いた。ルイセンコの命じたとおり正確にやったのだ。種子は水分を吸収してふくれ、かびが生えだし、すべて駄目になってしまった。広い耕地が一年間空地のままにおかれた。ルイセンコは、雪が富農だといって非難することも、自分が馬鹿だとも言うわけにいかなかった。彼は、農業技師たちが富農で、彼の技術を歪曲したと非難した。こうして農業技師たちはシベリア行きとなった*3

ルイセンコの農法が実害はソ連にとどまらず、中国や北朝鮮にも及んだ。ベッカーの『餓鬼』によれば、大躍進政策で大規模な餓死が引きおこされた原因の一つはルイセンコの農法にあった。

ルイセンコは1960年代に物理学者のサハロフが糾弾するまで影響力を保持した。戦後の日本にも影響を与えたようだ。

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*1:vernusはラテン語で春という意味らしい。

*2:ジャスパー・ベッカー『餓鬼』上p.111

*3:収容所群島』(新潮文庫)1巻p.92

ラクトースオペロン

YouTubeの人気チャンネル「予備校のノリで学ぶ大学の数学・物理」で、最近、システム生物学という講座がはじまった。「物理みたいな生物学をやろう」というスローガンで、最初の二回は、遺伝子制御を微分方程式つかってモデル化するという話をされている。

遺伝子制御ってそういえば高校生物で少しだけ習ったなぁ…そういえば、モノーとジャコブが発見した大腸菌のオペロンの仕組みってよく理解できなかったんだよな、と思い調べてみた。昔の自分がどの辺で躓いたのか掴めた気がするのでメモしてみる。

シンプルで分かり易いのは、トリプトファンオペロンにみられる負の自己制御*1大腸菌トリプトファンを合成するが、必要以上に合成しないように、トリプトファン濃度が高くなったらリプレッサーがオペレータ部位にひっついて転写を止める。これが分かり易いのは、最終生成物が増えてくると自分の合成を止めにかかってくるから。

昔の私が躓いたと思われるのは、ラクトースオペロンの仕組み。これはラクトース[β-ガラクトシド]をグルコースガラクトースに分解する酵素[β-ガラクトシダーゼなど]の合成を制御する仕組みだが、上の例と違う点がある。グルコース濃度が上がると酵素の合成が止まる、という点は似ているのだが、今回リプレッサーを制御するのはラクトースの方なのだね。要点としては:

  • ラクトース濃度が高くなければ酵素をコードする構造遺伝子の転写をはじめる理由はない。リプレッサーはオペレータ部位にひっついているのがデフォルトで、ラクトース濃度が高くなるとリプレッサーがオペレータ部位から外れる。
  • グルコースの方はというと…。オペロンの上流の方にCAP結合部位という領域があって、グルコース濃度が低いときはサイクリックAMP(cAMP)という分子がCAPという調節タンパク質と結合して、CAP結合部位にひっつく。これで構造遺伝子を転写するスイッチが入る。グルコース濃度が上がると、cAMPがCAPから離れてCAP結合部位からも離れる。これで転写のスイッチがオフになる。

こちら(↓)の解説が分かり易かった。トリプトファンオペロンとの違いにも注意が払われている。

なぜこういう風にできているのか疑問だが、ラクトース代謝系はグルコースが欠乏した場合に備えてのバックアップだと考えれば納得できる気がする。変なアナロジーだが、夜間に自動で点灯する照明は暗闇を探知してるわけではなく、あくまで周囲の光を探知していて、光が不足することでスイッチが入る、というのと似ている気がする。光がないとスイッチが入る。グルコースがないとスイッチが入る。

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*1:ヨビノリの講義の2回目で解説されている負の自己制御の仕組みは、トリプトファンオペロンに近い。

ヘンキンの問題

ゲーデル不動点定理を用いて「この文は証明できない」という趣旨を表現する算術の文gを構成して、gが無矛盾な公理系では証明も反証もできないことを示して、算術の不完全性を示した。

それでは、「この文は証明できる」を表現する算術の文を構成したらどうだろう。これは証明できるのか、できないのか。こういう問題をレオン・ヘンキンは立てた(1950)。この文をヘンキン文hと呼ぼう。

マーティン・レープは以下の定理を証明することで、ヘンキンの問題を肯定的に解決した(1955)。

  • Provable(φ)→φを証明できるなら、φを証明できる。

ヘンキン文hはProvable(x)の不動点として構成できる。不動点定理により

  • h ←→ Provable(h)

これは証明可能である。この双条件文を片方の条件文に変えると

  • Provable(h)→h

が得られる。よってレープの定理の前件が満たされたので、hは証明できることが示される。

レープの定理の証明には、次の一項述語を利用する*1

  • Provable(x) → φ

この述語の不動点をlとすると、不動点定理により

  • l ←→ (Provable(l)→φ)

が証明可能。lは「この文が証明可能ならφ」と言っているように読める。この双条件文を片方の条件文にすると

  • l → (Provable(l) →φ)

これは証明可能なので、

  • Provable(l → (Provable(l) →φ))

も証明可能*2。分配して

  • Provable(l) → Provable(Provable(l) →φ)

も証明可能。さらに分配して 

  • Provable(l) → Provable(Provable(l) ) → Provable(φ)

 も証明可能。一般に

  • Provable(x)→Provable(Provable(x) )

は証明可能なので、

  • Provable(l) → Provable(φ)

が証明可能。仮定により

  • Provable(φ) → φ

が証明可能なので、

  • Provable(l)→φ

が証明可能となる。これが証明できれば、lも証明できることになり、lが証明できればProvable(l)も証明できて、modus ponensでφが証明できる。q.e.d.

レープの定理の対偶をとってφに矛盾記号を代入すると、第二不完全性定理になる。第二不完全性定理からもレープの定理が導出できるので、この二つはある意味同値。

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*1:cf.Löb's theorem - Wikipedia

*2:可導性条件derivability conditionsの一つを使っている。以下のステップも同様。

ワルトトイフェル

最近、ワルツの指揮者として有名なロベルト・シュトルツによるワルトトイフェルのアルバムを聴いている。ワルトトイフェルというと、スケートをする人々(スケーターズワルツ)くらいしか知らなかったのだが、「女学生」とか楽しい曲をたくさん書いた人なのだね。

CD付属の解説も興味深かったのでメモしておく。

  • ワルトトイフェルはフランスのワルツ王と言われるが、彼の名前はドイツ風だ。それは彼がアルザス=ロレーヌ(独名エルザス=ロートリンゲン)の生まれだから。
  • パリ音楽院で学び、ビゼーやマスネと親交があった。
  • 1867年のパリ万博で演奏されたヨハン・シュトラウスII世の「美しく青きドナウ」に衝撃を受け、大きな影響を受けた。ワルトトイフェルの代表作はこの後に作られたものが多い。
  • ウィーン進出にも一時的に成功したが、1871年普仏戦争でフランスが敗北したことをきっかけに撤退(?)。1870年頃、ワーグナーはある評論で「優美、淡麗、そしてゆたかな音楽性を持っていることでは、シュトラウスのワルツのどの一つをとってみても、わざわざ手数をかけてしばしば輸入される外国製のものより、はるかに優れている」と書いた。ここで「輸入される外国製のもの」として念頭に置かれているのはワルトトイフェル。ワーグナーはフランスで成功しなかった人なので、これだけ読むとひがみを感じなくもない。
  • ワルトトイフェルは明治初期の鹿鳴館時代に日本でも好んで演奏された。当時はオーストリアとの国交がそれほど密接ではなかったためか、ヨハン・シュトラウスはあまりポピュラーでなかった。

ワルトトイフェルが亡くなったのは1915年だけど、彼の作風は古典的なので、20世紀になるとドビュッシーラヴェルなど印象派が台頭してきて一気に古びてしまったという話も聞く。それは十分理解できるけど、このアルバムは聴いてて楽しいし、シュトルツの演奏も素晴らしい。