Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

様々な含意関係

哲学の文献では"entail"という用語がよく出てくる。意味合いとしては、AがBをentailするとは、Aならば必ずBといったところだろうか。それも、単なる必然性ではなく意味によって・概念的に必然的、といったニュアンスも含まれる。論理的帰結関係はentailの一種だろうけど、知識が信念を含意する、といったときにもentailと言う。

entailの定訳は何だろうか。「含意」とか「伴立」とか「随伴」といった訳語をしばしば見かける。「含意」が一番多そうだけど、implicationも含意と訳すので(実質含意material implicationなど)、この辺はちょっと厄介なところ。

implication以外にもentailと似た概念が言語哲学まわりでは沢山ある。ちょっと整理してみよう。さまざまな含意関係の違いを調べるときに、後件を否定した場合の効果を調べるのが有効だと言われる*1。entailの場合にはBを否定するとAも否定される(対偶)。前提(presupposition)の場合、Bが偽ならAは真理値をもたない*2。慣習的含み(conventional implicature)の場合は前件に関して言葉遣いを誤ったと見なされる。会話の含み(conversational implicature)の場合には、聞き手に誤解させるような話し方をしたとみなされる。

だいたいこの辺の違いを押さえておけば十分だろう。ちなみに、大澤真幸はこれら全てと異なるentailの用法を提示している。

AがBを「必然的に随伴するentail」とは、AがBを含意し、かつAの否定がBの否定を含意していること、である。むろん、このときAとBは、論理的には同値になる*3

しかし、寡聞にして、こういうentailの用法(論理的同値と同値であるような用法)は聞いたことがない。

関連記事

*1:イカンの『言語哲学』p.280

*2:ただし、これは意味論的前提の場合。

*3:大澤真幸『意味と他者性』p.125n1

グライスの「意味」

言語哲学者グライスの有名な論文「意味」は1957年に出版されたが、初稿が書かれたのはその10年ほど前だという*1。たしかに、邦訳の『論理と会話』に付けられた飯田先生の「グライス紹介」にも「発表は1957年であるが、もとの草稿は1948年に書かれたという」とある(p.358)。

邦訳の目次には出版年の情報が付けられていないが、原著の目次には章ごとに出版年が細かく記されている。それを見ると、Meaningは(1948, 1957)と記されている。飯田先生が「1948年」と書いた典拠はおそらくこれだろう。

wikipedia, "Paul Grice" には

See discussion of this history in Russell Dale, The Theory of Meaning, Chapter 1, endnote 31, p. 34.

とある。この著作はウェブ上で読めるようなので調べて見たところ、次のように書いてあった*2

Stephen Schiffer, Richard Grandy, and Richard Warner have all told me in personal correspondence that Grice originally wrote the paper for a seminar that he and Strawson were to give in 1948, but was reluctant to publish it. Strawson had the article typed out and submitted it for publication without Grice's knowledge. Strawson only told Grice after the article was accepted for publication. Stephen Schiffer has told me that Grice himself told him this story and Richard Warner has written to me that he also heard this story from Grice. The only person I have been able to find who has noted the 1948 date is Fogelin in his review of Studies in the Way of Words: "'Meaning'...was first published in 1957, and apparently given as a lecture almost ten years earlier in 1948" (Fogelin (1991)). But that "Meaning" was given as a lecture does not seem to be noted anywhere in Studies in the Way of Words and Fogelin doesn't mention a source for the information he provides.

 

*1:柏端『コミュニケーションの哲学入門』p.71n1

*2:The Theory of Meaning by Russell Dale; Chapter 1 Notes

モンテホール問題

『アド・アストラ』にモンテホール問題が出てきたので、久しぶりにこの問題について考え直してみて、ふと気づいたことがあった。メモとして記してみる。

モンテがドアを開けた後で選択肢を変更したほうが正答の確率が上がるというのはパラドキシカルだと感じてしまうのは、モンテが確実にハズレのドアを開けるという点をきちんと考慮できていないから、だと思われる。

比較のために、次のようなケースを考えよう。私が3番目のドアを選びつつ、まだドアは開けないでおく。次に、別の人(どのドアが当たりかは知らない)が2番目のドアを選び、ドアを開けたところハズレだったとする。このとき、私は3番目のドアから1番目のドアに選択を変えるべきだろうか。いや、そんなことはない。どちらが当たる確率も等しいからだ。

このことをもう少し形式的に示してみよう。Aiを「i番目のドアが当たりである」、Biを「モンテがi番目のドアを開ける」という命題とする。なお、私は3番目のドアを選んだと仮定する。このとき、確率の付値は次のようになる。

  • Pr(A1) = Pr(A2) = Pr(A3) = 1/3
  • Pr(B1 | A1) = Pr(B2 | A2) = 0
  • Pr(B1 | A2) = Pr(B2 | A1) = 1
  • Pr(B1 | A3) = Pr(B2 | A3) = 1/2

ポイントとなるのは、2行目と3行目の付値である。1番目のドアが当たりのとき、モンテは絶対に1番目のドアを開けないで、2番目のドアを開ける。この事実こそが、例えば、モンテが2番目のドアを開けたときに1番目のドアが当たりである確率、つまり、Pr(A1 | B2) を計算するときに効いてくる。ベイズの定理を使って計算すると 2/3 となる。

先ほど比較のために挙げたケースでの確率の付値はこれとはまったく異なる。Biを「別の人がi番目のドアを開ける」と解釈すると、2行目と3行目の値はどちらも1/2となるからだ。この場合、選択肢を変えねばならない理由はない。

完全なものから一部を取り除いたら不完全

「その、「二重否定除去則」を認めないと、古典論理で証明された定理の中で直観主義論理では証明できないものが出てくるんでしょう?」

「出てくるね、排中律とか、ド・モルガンの法則の一部とか」

「どうしてそんな不完全なものが許されるわけ?」

「いや、直観主義命題論理の完全性は証明できるらしいよ」

「だって、古典命題論理の完全性も証明されているんでしょ?」

「うん」

「それで、直観主義論理は古典論理の一部なんでしょう?」

「そうさ」

アリスはそこで勝ち誇ったように、言った。

「完全なものから一部を取り除いたら不完全になるのよ。知らなくって?」*1

この練習問題はよくできている。巻末の模範解答によれば

「完全」ということは意味論に相対的だからね。古典論理の意味論に従えは、もちろん直観主義の公理系LIPは不完全になる。だけど、直観主義直観主義の意味論を提出するわけだ。そして、その意味論のもとでは、公理系LIPも完全になることが示されているんだ。(逆に、直観主義の意味論からすれば、古典命題論理の公理系LPは論理的真理でないものまで含んだ不健全なものとなる)

ということは、例えば、「一階論理なら完全性を証明できるけど、二階論理では無理」といった言い方には注意しないといけない。二階論理(命題論理だろうと述語論理だろうと)について、標準的な意味論を採用した場合には不完全だが、非標準的な意味論(ヘンキンの意味論など)を採用すれば完全性がいえる。どの意味論と相対的に完全/不完全なのかについて自覚的でないといけない。

*1:野矢『論理学』p.184

王水

王水(aqua regia)は金をも溶かす強酸として知られる。では、王水はどのようにして発見されたのだろうか。wikipediaの「王水」によれば

西暦800年前後、イスラム科学者のアブ・ムサ・ジャービル・イブン=ハイヤーンにより、まず食塩と硫酸から塩酸ができることが発見され、それを濃硝酸と混合することで開発された。

たしかに、王水は濃硝酸と濃塩酸を1:3の体積比で混合して得られる。しかし、王水の発見者も同じような製法で王水を作ったのだろうか?これはちょっと疑わしい。塩酸の製法が見つかったのはもっと後だと言われるからだ。かなり古い本だが、ダンネマンの『大自然科学史』によると、中世のアラビア科学では塩酸がまだ知られていなかった*1。15世紀のバシリウス・バレンティヌスという修道士、あるいは、16世紀のリバビウスという人が初めて合成したのではないか。

では、イブン=ハイヤーン(ゲーベル)は塩酸ぬきでどうやって王水を作ったのか。実は、塩化ナトリウムに濃硝酸を加えても王水はできる。高校の授業(?)で、この方法で王水を作らせた先生もいるみたいだ。歴史的な発見の順序にも沿っており、素晴らしい指導なのではないかという気がする。

 

*1:大自然科学史』3巻p.130

ヒルベルトスタイル

現在、論理学での「証明」のやり方としてしばしば採用されるものとしては、「タブロー」の他に、ゲンツェンが考案した「自然演繹」と呼ばれる方法がある。そして自然演繹の方法は、かつての「公理的方法」などに比べれば、はるかに習得が容易であるしー公理的方法では、簡単な論理式を証明するのも、ほとんど「職人芸」であった!ーまた、「論理語の意味とは何か」といった問題や、通常の体型とは異なる論理体系を考えたりする上では、極めて有用なものである*1

ヒルベルトスタイルの証明は確かにどうしようもなく不便だが、「職人芸」というほどだろうか…などと思っていた時期が私にもあった。コンビネータでいうK, Sに対応する公理型があれば、演繹定理をわりあい容易に証明できるため、仮定による証明ができてしまう。だから、コツを掴めばそれほど難しくない、などとナメていたのだ。

しかし、公理系によっては、上の引用にもあるように、簡単な論理式を証明するのもほとんど職人芸になってしまう。例えば、カルナップ「論理学と数学の基礎」にある公理系を見てみよう*2

  • wenn ... so [wenn nicht ..., so ---]
  • wenn [wenn nicht ..., so ...], so ...
  • wenn [wenn ..., so ---], so [wenn [wenn ---, so .-.-], so [wenn ..., so .-.-]]

ドイツ語で書かれているので、もう少し分かりやすい記号で表すと

  • p → (not-p → q)
  • (not-p → p) → p
  • (p → q) → [(q → r) → (p → r)]

のようになると思う。なお、推論規則はmodus ponensのみである。この公理系の嫌なところは、条件文のみのトートロジー(例えば、K)を証明するにも否定のついた公理を使わなければならないところにある。証明はうんざりするほどトリッキーなものとなる。

あるいは、戸田山和久『論理学をつくる』で紹介されている、一つしか公理をもたないメレディスの公理系:

  • ( ( (A → B) → (¬C → ¬D) ) → C → E) → ( (E → A) → (D → A) )

この公理系の証明も、(試してはいないが)ものすごくトリッキーなものとなるだろう。

*1:丹治『タブローの方法による論理学入門』p. i-ii

*2:カルナップ『論理学の形式化』所収, p. 189あたり。List of Hilbert systems - Wikipediaによると、ウカシェーヴィチに由来する公理系のようだ。

野本『現代の論理的意味論』

先日、フリーマーケットで野本和幸『現代の論理的意味論』を¥100で購入した。大庭健『はじめての分析哲学』とか飯田隆言語哲学大全』3巻の読書案内で紹介されていたのでだいぶ以前から気になっていた本だが、なかなか手に入らなかった。図書館で少し眺めたことがあるが、辞書のような本なので手元にあるといいなぁと前から思っていた。これほどの低価格で手に入ったのは収穫だった。

目次を見て、興味の湧いた箇所をいくつか拾い読みした。辞書のようで通読するには向いていないけど、辞書といえばそもそもSEPのない時代にこれほど情報量の多い本が出ていたというのは凄いことだと思った。今現在でも読む価値はあるのでは。確かに『言語哲学大全』でこの本の多くの話題はカバーされているが、初期のカプランの仕事なんかはこの本くらいでしか近づけないのではなかろうか。

なお、カルナップの様相論理を紹介しているところで個人的に引っかかるところがあったのでメモしておく。まず、次の箇所(p.196)

次のような言表様相と事象様相との相互連携が含まれる文脈では、変項の付値の中立性(外延的文脈では外延を、内包的文脈では内包を付値する)というカルナップの方策は、依然として困難を含むであろう。

(*)∃x(x = the number of planets and nec(x = the number of planets))

この箇所は、少し前の記述と整合しないように思う。

『意味と必然性』の様相論理の対象言語においては、変項はもっぱら内包をその値にとる、つまり個体変項は個体概念を、述語変項は特性を、文変項は命題を変域とするという見解が新しく採られている。p.192

思うに、後者の方がたぶん正しい。つまり、necの中か外かによってxの値が変わるということはない。

では、(*) はどうやって解釈されるのか。この本の意味論では、文は可能世界と変項へのアサインメントと相対的に真理値をとる。(*) によれば、ある世界wとアサインメントaのもとで、なんらかの個体概念が x = the number of planets and nec(x = the number of planets) を満たす。a(x) の値を惑星の数-概念としよう。惑星の数-概念にwを食わせた値は、もちろん惑星の数-概念にwを食わせた値と等しい。よって、x = the number of planetsはw, aのもとで成り立つ。また、任意の世界w'で同じことが言えるから、nec(x = the number of planets) もw, aのもとで成り立つ。だから、正しい文なんじゃないかな。