Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ムペンバ効果

同じ体積の、高温の水と低温の水を冷却すると、高温の水のほうが早く凍ることがある、という話がある。これは、発見者となったタンザニアの中学生にちなんで「ムペンバ効果」と呼ばれる*1

信じがたい話だが、再現するのは難しいものの、まったくのデタラメでもないらしいというから驚きである。

ちなみに、wikipediaの記事によれば、アリストテレスデカルトも、このムペンバ効果に気づいていた可能性があるようだ。昨日の記事にもあるように、ちょうど『デカルト著作集』1巻を図書館で借りているところだったので、典拠を探してみたところ、『気象学』第1講の最後の方で該当箇所を見つけた。参考までに引用しておく。

火の上に長時間かけてあった水は、そうでない水より早く氷る。これは水の微小部分のうち、もっともたわみにくいものが、熱せられているあいだに蒸発するためである。p.230 

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*1:『知の理論を解読する』p. 75

デカルトの気象学

バターフィールド『近代科学の誕生』を眺めていたら、デカルトに関するこんな記述を見つけた(上巻p.182f)。

『気象学』の中で、彼は、よく人の口にのぼる、雲が血の雨を降らすこととか、雷が石に変わることとかについて、説明を試みている。実際、彼は新事実や異常現象を発見するために実験を行うよりも、常識として受け入れられている事がらを彼の方法を適用して説明することの方がおもしろいと言っている。

いまあげたような彼のいわゆる公認の「事実」には、吟味もせずにスコラ学者の著作から取り入れたものが多い。

赤字部分のようなことを本当に言っているのかと思い、調べてみたらあっさり見つかった。正直何を言っているのかよく分からないのだが、とりあえず、白水社の増補版『デカルト著作集』1巻所収の「気象学」第七講から引用する。

まず、雷が石に変わるという話は以下。

雷は、もしこのような浸滲性の強い蒸発物のあいだに、ときに脂肪性の、硫黄を含んだ他の多くの蒸発物があるならば、非常に固い石に変わって、ぶつかるもののすべてを折り、砕くことがあるが、とりわけ、もっと大きくて、雨水を器に入れて澄ませるときその底に見られるあの土に似た蒸発物の混じっているときがそうである。実験によって見られるとおりであって、このような土と硝石と硫黄のいくらかを混ぜ合わせたのち、この合成物に火を点ずると速やかに石が形づくられるのである。p.288

血の雨については以下。

いくつものさまざまな性質をもつ蒸発物があるのだから、雲がそれらを圧することによって、それらが持つ色と濃度により、あるいは腐敗して、わずかの時間でなにがしかの小動物を生み出すような物質がときにつくられることが不可能だとは思われない。たとえばさまざまな奇蹟の物語のなかに、しばしば鉄や血やバッタやそれに類するものが天から降ったとあるのがそれである。p.289

スコラ学者の著作から取り入れられているという点については、訳注によると、ポルトガルコインブラ大学にあるイエズス会の大学教授たちが書いた『スタギラの人アリストテレスの気象の諸巻注解』という本が典拠になっているらしい。この本はラ・フレーシュ学院で教科書として使われていたらしく、ジルソンはこの本とデカルトの「気象学」の比較研究を行って多くの類似点を見出した、とのことだ。

ワインバーグの『科学の発見』は、「気象学」第八講にある虹の説明をデカルト最高の業績として紹介している。ワインバーグによれば、デカルトの仕事には間違いが多すぎて、過大評価されている、とのことである。実際、間違いのサンプルがいくつか紹介されていたと思うが、上述のような箇所は紹介する価値もないという感じか。

笑う哲学者

ブラックバーンが編集している『図鑑 世界の哲学者』という本を図書館で借りてみたのだが、美しい図版がたくさん収録されていて大変面白い。文章を読まずに眺めてるだけで楽しめる。

デモクリトス肖像画とか、はじめて見た気がする。

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「陽気なデモクリトス

いい笑顔である。そういえば、デモクリトスには「笑う哲学者」という異名もあるのだったっけ。「人間にとって最善とは、できるだけ上機嫌で、できるだけ不機嫌であることなく、人生を送ることである」(断片189)。岩田靖夫によれば、「上機嫌」という概念がデモクリトス倫理の中心概念であり、これは口腹のようなはげしい快楽ではなく、静かで上品な快楽なのだそうだ*1

笑顔の肖像画といえば、18世紀フランスの唯物論者ラ・メトリーにも、歯を出して笑っている肖像画がある。

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「ド・ラ・メトリの肖像」

ド・ラ・メトリというと、『人間機械論』というタイトルの本を書いた人、くらいにしか知らないのだが、彼はなぜ笑っているのだろうなぁ…。

*1:岩田『ヨーロッパ思想入門』p.53

米英東亜侵略史

今日は真珠湾攻撃の日ということだが、しばらく前に大川周明の『米英東亜侵略史』を読んだ。ラジオの講演原稿だというけど、よく書けている。いろいろ問題はあるにせよ、当時の右翼がどういう筋道であの戦争を正当化しようとしたのかが分かる、興味深い本だった。

レトリックも見事で、元寇と太平洋戦争を対比させて

敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条、天意か偶然か、めでたきまわり合わせ

とか

想えば一九四一という数は、日本にとって因縁不可思議の数であります。元寇の難は皇紀一九四一年であり、英米の挑戦は西紀一九四一年であり

といった言葉で講演を結んでいる。

ファクシミリ

たしかウィトゲンシュタインの論文集だったと思うが、いろんな雑誌に掲載された論文を組版とかをまったく変えずに集めただけの論文集をむかし研究室で見かけた。雑誌に掲載されたときのページ数とかもそのままコピーされているので、ある意味便利だなと思ったものだけど、そういうのを「ファクシミリ版」と呼ぶことを最近知った。

たぶん「リプリント」とは違うのだろう。リプリントだと、組版とかも論文集全体で統一するために変えることになるだろうから。最近はファクシミリ版の論文集とかまずないんだろうなぁ

エンダートンの教科書

最近、定評あるHerbert Endertonの教科書(A Mathematical Introduction to Logic)の日本語訳が出た。私もこの本で論理学を勉強した人間の一人なので、この素晴らしい本が多くの人に読まれるのは喜ばしい。 

論理学への数学的手引き

論理学への数学的手引き

 

amazonのレビューがとんでもないことになってるが、見なかったことにしよう。 

さて、日本語訳を手に取る機会があったので、訳者のコメントを読んだところ、シェークスピアなどからの引用がちりばめられている、と書いてある。「あれ、そうなの?」と思ったが、訳注で解説されている箇所がいくつかあって、たしかに改めて見てみると、変わった例文とか使ってたのね。例えば、1.1節では、条件文の例で

  • If wishes are horses, then beggars will ride.

これはスコットランドの方言らしい*1

2.0節では、存在量化文の例で

  • There is something rotten in the state of Denmark.

これは『ハムレット』をもじったものらしい。

まあ、こういう箇所はそう多くはなさそうなので、記憶に残らなかったのは不思議でないかな。高尚な例文がいっぱい出てくる論理学の教科書としては、ウェズリー・サモンの『論理学』とかいいと思う。

ヘンペルのカラス(2)

哲学とは万物を熟考しつづける学問だが、どんな仮説に対してもぼんやりし続ける、ということにかけて常人の想像を絶するような例が数多く存在している。たとえばそのうち1つが「ヘンペルのカラス」という考え方だ。

これはドイツのカール・ヘンペルが1940年代に指摘したものであるが、「ヘンペルのカラス」の問題を考えてみると、我々は「カラスとは黒いものである」という当たり前の仮説さえも真偽を証明することができないことがわかる。

「カラスとは黒いものである」というのは、「一羽の黒い烏を見た」ということによって証明されるものではない。たとえあるカラスが黒くても、他のカラスは赤く、また別のカラスは青く、といった状態であれば「烏は黒いものとは限らない」。つまり「カラスとは黒いものである」とは「すべてのカラスは黒い」という主張をしているにほかならないのだ。…

全称性を持った仮説を反証するのは簡単である。たった一羽黒くないカラスを連れてくれば、「すべてのカラスが黒いとは限らない」ということは証明できたことになる。だが、「すべてのカラスが黒い」ことを証明しようとする側はたいへんである。いくら大量に黒いカラスを連れてきても、ぼんやり者たちは「それがすべてのカラスとは限らない」「ほかに黒くないカラスがいないという証拠にはならない」といくらでも反論し続けることができるのだ。

こうして厳密に考えると、我々はカラスが黒いか白いかも主張できない。…

ただし、それは我々が統計的仮説検定を知らなければ、の話だ*1

哲学に対する悪意を感じないでもないが、それより問題なのはこの説明がヘンペルのカラスとは全然関係ないことだと思う。ヘンペルのパズルは「すべてのカラスは黒い」という全称文を証明することではなく、確証confirmすることに関わるのだが…。

パズルの前提は3つある。

  1. ニコの規準:Fa & Gaは∀x(Fx→Gx)を確証する。
  2. ∀x(Fx→Gx)と∀x(¬Gx→¬Fx)は論理的に同値である。
  3. 文sが文tを確証するなら、sはtと論理的に同値なt'も確証する。

「すべてのカラスは黒い」と「すべての黒くないものはカラスでない」は論理的に同値だとしよう(前提2)。私が今はいている白い靴下を「a」とすると「aは黒くなくてカラスでもない」は「すべての黒くないものはカラスでない」を確証する(前提1)。すると、「aは黒くなくてカラスでもない」は「すべてのカラスは黒い」を確証するだろう(前提1)。しかし、カラスを観察することなく、部屋のなかにいるだけで「すべてのカラスは黒い」を確証するというのは変だ、と。

可能性は4つある。ニコの規準を捨てるか、対偶が論理的に同値でないという非古典論理を採用するか、確証関係は論理的同値よりもきめ細かい内容を要求すると考えるか、それとも白い靴下の観察でさえ「すべてのカラスは黒い」を(ほんのわずかだが)確証するという結論を受け入れるか、の4つ。

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*1:西内『統計学は最強の学問である[実践編」』p.114f