Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

秘密情報機関員

クリステヴァは出身国のブルガリア共産主義だった時代に秘密情報機関員だった、という噂が流れている。

一応本人は否定しているみたいだし、本当かどうかはまだ分からない。けど、本当だったとしても驚きではないかな。『知の欺瞞』の序文によると、彼女は『知の欺瞞』を評して、アメリカの反フランス的な経済・外交運動の一環だという人身攻撃に打ってでたという話なので、イデオロギー色の強そうな人だなぁというのが元からの印象だったし、『中国の女たち』に対する山形浩生のレビューなんかを見ると…。長いけど引用しておく*1

クリステヴァ中国共産党の手配で、文革末期の1974年に中国を二週間ほど訪れた。そのときの感想文が本書。二週間のパック旅行(それもかなり駆け足で各地をまわっている)ではろくなものが見られなかったようだ。話を聞いた相手はすべて、共産党の(当時の)公式見解しか語っていない。それでも分量が足りず、半分以上はマルセル・グラネの受け売りで昔の中国における女性の話をしたり、共産党初期の女性党員の話をしたりだが、いずれも聞きかじりレベル。
そして最終的には、共産革命が中国古来の男性重視家父長制を打ち破ろうとしていたとか、文革で女性の地位はかつてないほど向上とか、紅衛兵たちは親たちの劉少奇的な反動主義を打ち破ってさらに前進しようとしているとか、林彪がのさばっていたらひどいことになったとか、共産党プロパガンダをそのまま繰り返し、「中国においては《神》のない、また《男》のない社会主義を目指す道が選ばれている」などと結論づける。
要するに、小難しい言葉で中国と文革の翼賛をやっているだけなのだ。かつて日本の一九八〇年代末のニューアカデミズムはそれを見抜けず、本書を「異邦の女のまなざし」などと持ち上げていたけれど、いま読むとひたすら悲しく情けないだけの無内容な本。

ゲーデルの定理(5)

不完全性定理」というときの「完全性」の意味に関して。

最後に、公理系は完全であるかと言う問題がある。すなわち、公理系のすべてのモデルでなりたつ命題は、公理系から結果として証明されるか、という問題である。再びゲーデルは、相応に豊富な任意の公理系が、完全ではあり得ないことを示している。*1

赤字部分は奇妙だと思われる。任意の文集合をΣ、Σがすべて成り立つモデルの集合をMod(Σ)、Mod(Σ)に属するすべてのモデルでなりたつ文の集合をTh(Mod(Σ))、Σの演繹的閉包をCn(Σ)と書くとすると

  • Th(Mod(Σ)) = Cn(Σ)

は一階述語論理の強完全性定理から証明できそうだから。

理論(ないし公理系)が完全かどうかというときに問題なのは、任意の文σについて、σないし¬σが当該の理論に入ってるかどうか、ということだと思う。ただし、完全性だけではあまり興味深い特徴にはならない。矛盾した理論は定義上完全になってしまうし、真の算術のように再帰的でない仕方で理論を指示してしまえば定義上完全になる。無矛盾で再帰的という条件を満たした上で完全かどうか、というのが理論の評価ポイントとなるのだろう。

*1:ハーツホーン『幾何学I』p.83

『ローカル女子の遠吠え』でいく静岡旅行

『ローカル女子の遠吠え』という四コマギャグマンガがある。このマンガは静岡のローカルネタを(自虐も含みながら*1)簡潔に、そして県外の人間にもわかりやすく伝えていて、とても面白い。女の子が可愛いだけのありきたりな四コマ漫画とは一線を画す、傑作だと思う(言い過ぎか?)。

私(東京在住)はこれまで伊豆を除くと静岡をほとんど旅行したことがなかったのだが、いい機会だと思って、このマンガをネタにして静岡を三泊四日ほど旅行してみた。適当にプランを組んだにしては結構楽しかった。

備忘録を兼ねたメモを以下に書いたので、興味を持った方は参考までにどうぞ。「委員長」(りん子さん)に引率されているような気分になるかも(ならない)。ネタバレを含むので未読の方は自己責任で。

*1:「しぞーか愛が止まらない、のぞみも停まらない」とか。

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ジジェクのチャーチル論

チャーチルの有名なパラドックス…民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という論理に基づいている。その第一前提は、「ありとあらゆるシステム」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく、付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。*1 

何を言ってるのか理解できないのだが、そもそもの元凶はチャーチルの発言を紹介するやり方にあるのではないかと思う。赤字部分の原文は以下。

"It is true that democracy is the worst of all possible systems; the problem is that no other system would be better." 

引用符つきになっているが、これは実際にチャーチルが言ったことの正確な引用ではないと思われる。 チャーチルは次のように言った。

Many forms of Gov­ern­ment have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pre­tends that democ­ra­cy is per­fect or all-wise. Indeed it has been said that democ­ra­cy is the worst form of Gov­ern­ment except for all those oth­er forms that have been tried from time to time.…*2 

「民主主義は最悪の政治形態である、これまで時折試みられてきた他のすべての政治形態を除けば」。これなら私でも理解できる。民主主義が完璧だとはだれも思っていないし、ひどい政治形態ではあるのだが、これまで試みられてきた他の政治形態はもっとひどいのだから、民主主義で我慢するほかない。民主主義よりよい政治形態がたくさんあり「うる」けど、そんな政治形態を我々は未だ知らない、といったところか。凝った表現だが、別にパラドクスでも何でもないと思う。

*1:『斜めから見る』pp.62-63, cf. 『イデオロギーの崇高な対象』pp.13-14

*2:"Democracy is the worst form of Government..." - Richard M. Langworth

ブール代数の公理系

ブール代数の公理系についてのメモ。論理学の本では、束→分配束→ブール束という順番で公理系を強化していくが、新たに公理を付け加えたことで、中には冗長になる束の公理もあるらしい。ハンティントン(1904年)の公理系は

  • 同一律 identity
  • 交換律 commutativity
  • 分配律 distributivity
  • 補元律 complements

の四種類の公理から成る。吸収律absorptionとかベキ等律idempotentとか結合律associativityなどはすべて、これらの公理から証明できるのだとか。詳しくは以下を参照。

他にもいろいろな公理化の仕方があるみたいだ。ハンティントンの等式Huntington equationというのを使うと、結合律と交換律を合わせた三つだけで済むのだとか。記号の数もintersectionがいらなくなって二つで済むようだ。

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マンフォード『因果性』『形而上学』

最近翻訳されたスティーヴン・マンフォードの本2冊を読んでみた。

哲学がわかる 因果性 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 因果性 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

 
哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

 

どちらもコンパクトに要点が纏まっていて悪くない本だと思う。どちらかと言われれば、個人的には『因果性』の方がお薦め。『形而上学』の方はちょっと退屈だった(個人の感想です)。それと、時間の章(6章)で、現在主義は特殊相対性理論と緊張関係にあるという有名な問題を紹介する箇所が問題アリの記述になってるようだ。私の理解する限りでは、慣性系によってどの点とどの点が同時であるのか変わりうるから特権的な現在を選ぶことなどできまい、というのが(かつてパトナムが指摘した)問題なのだが、マンフォードの書き方だと、光速度が有限で伝播に時間がかかるというだけのことから現在主義に問題が生じるかのようになっていて奇妙、ということだと思う。訳者たちはカッコで文言を補いまくって説明が適切になるように仕立て直している。この力業には驚いた。現代形而上学に不信感を持っている人は「現代形而上学、やっぱダメみたいですね」と言いたくなるかもしれないが、こういう風に自浄作用がちゃんと働いているのは良いことだと思う(訳者たちも現代形而上学の研究者だし)。

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タブラ・ラサに関するメモ

そこで、こころというものは、いわばなんの刻印もなく、どのような観念ももっていない白紙である、と想定しよう。 

この有名な一文は、ロック『人間知性論』2巻1章2節にある。ロックは「白紙white paper」と書いている。熊野純彦によると*1

ラテン語で「白板tabula rasa」と呼び変えたのは、ライプニッツである(『人間知性新論』「序文」ほか)。 

ただし、邦訳の『人間知性論』1巻解説(p.317)によると、このラテン語表現はガッサンディも用いていたし、ロック自身も『知性論』の二つの草稿で用いていて*2、当時の知識人にとってはおなじみの用語だったようだ。

おなじみの用語であるからには、中世あるいはひょっとすると古代にまで遡るような伝統をもつ概念を指している可能性が高い。再び、熊野純彦によると

ストアの認識観は、一般的にいって経験論的な色彩の強いものであった。「ストアのひとびとの語るところによれば、人間は生まれたとき、たましいの主導的な部分を書きこみのためによく整えられた白紙として所有しており、個々の観念をここにみずからひとつひとつ書きこむという」(『断片集』第2巻、断片83-白紙という比喩は、一方ではおそらくアリストテレスに由来する(『デ・アニマ』第3巻第4章)。他方それは、いくつかの屈折を経て、イギリス経験論の雄、ロックによる「白紙」の比喩にまで流れ込んでゆくことになる*3 

「いくつかの屈折を経て」の内実は、英語版のwikipedia

が割と詳しく書いてる。

白紙・白板の比喩がアリストテレスまで遡れるということは、アリストテレスとロックが心というものを全く同じように考えていたということを意味しない。古代・中世の哲学で白紙・白板になぞらえられているのは受動知性(可能知性)であって、知性には能動知性という別の側面もあるとされる。坂部恵の整理によると、知性intellectusの概念から能動知性を落として受動知性へと切り詰めたことが、ロック的な知性understandingの概念につながった、とのことだ*4

受動知性は、経験から獲得した概念や知識の貯蔵庫のようなものとしてイメージしておけばよさそう。生まれた時点では何も貯蔵されてないから、白紙・白板ということなのだろう。なお、現代の心理学では「記憶」にも色々な種類があるとされるが、ここでいう知性と関係する記憶は「意味記憶semantic memory」とか呼ばれてる。他方、海辺に連れて行ってもらったことを覚えているといった過去の記憶(エピソード記憶)は、知性ではなく想像力の働きと関連づけられる。

受動知性と比べて、能動知性の概念は分かりづらい。物体を見るために必要な光に喩えられることが多いが、大まかには、感覚経験から抽象的情報を獲得するために人間が持っている能力、という風に理解しておく。「人間が持ってる能力」というところがミソである。ほかの動物は感覚能力に関して人間と同等だが知性を欠くので、物質的対象について抽象的思考をめぐらしたり、知識を獲得することができないとされる。

能動知性は言語をマスターする能力と密接な関係にあるので、アンソニー・ケニーはこれをチョムスキーの生得的な言語獲得能力と比較している*5。子供が言語断片から驚異的な速さで文法を獲得することは、何か特異な能力を仮定しなければ説明がつかない。それと似て、自然界の質料的条件から概念を抽象するための能力は感覚能力とは別個の能力を仮定しないと説明がつかない、これら能力はどちらも人間という種に特有である、といったところだろうか。

*1:『西洋哲学史 近代から現代へ』p.40

*2:ロック自身は"rasa tabula"と書いたらしいが。

*3:『西洋哲学史 古代から中世へ』p.123

*4:『ヨーロッパ精神史入門』p.87

*5:トマス・アクィナス心の哲学』4章