Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

小学校の集合論

集合が小学校の課程の中に導入されたとき、多くの親達はたいへんな反発を示したらしい。習ったことのない「集合」が入ってくると、親は子供の算数の面倒をみることができなくなるからである。しかし、このことは多くの場合、無駄な心配に終わった。というのも、「集合」がわからなくなって親に質問した子供は、ほとんどいなかったからである。*1 

小学校で集合とか習ったっけ、もう小学生の頃の記憶なんてないなぁと思っていたのだが、ググってみたら、こういうページを見つけた。

ここでの説明によると、昭和43年の教科書で集合論が採用されて、昭和55年には廃止されたらしい。つまり、私が小学生の頃には(というか、生まれる以前に)すでに集合は姿を消していたことになる。

しかし、なぜ集合なんてものを小学校から教えるようなことになったのか。事情はおおよそ次のようなものだと思われる。1970年代、西側諸国では新しい数学運動によって数学者が初等教育にも介入した。集合はあらゆる数学の基礎とされ、小学校から教えられるようになった*2。世界的な傾向だったのだね。

では、なぜ集合は姿を消したのか。結局、親の反発が強かったということなのだろうか。よくわからない。ちなみに、大澤は上の文章を次のように続けている。 

そんなに簡単ならば、ということで、親達の中には、子供の教科書を使って「集合」なるものを勉強してみようと思った者もいた。ところが、このような野心的な親達の多くは、子供にはあんなに簡単に理解できた「集合」を、ほとんど最初の一歩から全く理解できなかった。どうしてこんなことになったのだろうか?大人のかなりの部分が、これを理解することに挫折したのは、集合が難しかったからではなく、彼らが、そこに書かれていたことの「意義」や「有用性」やらにこだわってしまったからである。 

真相はいかに。

リドレー『徳の起源』

マット・リドレーの『徳の起源』を読んだ。以前、途中まで読んだのだが、難しくて止めてしまった覚えがある。今回はいちおう最後まで読みきったが、正直理解できなかったところも多い。ただ、中盤で誤訳をいくつか見つけたので、これが以前読むのを諦めた原因の一つかもしれない、とも思った。翻訳については後で触れるとして、まずは、この本のテーマを紹介する。

この本は、ロシアのアナーキスト思想家として知られるクロパトキンの物語からはじまる。イギリスに亡命したクロパトキンは、「自然は利己的な生物どうしの非情な闘争の舞台である」と言ったトマス・ハクスリーを批判して『相互扶助論』という本を書いた。協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もそうだとクロパトキンは考えていたからだ。生存競争から利他的行為が生まれるとは信じられなかった。こういう信条の背景には、帝政ロシアのもとで監獄に入れられた彼の個人的な経験がある。クロパトキンは友人たちの協力で脱獄できた。友人たちが助けてくれなかったら脱獄なんてできなかった、と。

さて、しかし、クロパトキンは協力がどうやって進化したのか、という問いに悪名高い群選択の理論で答えるしかなかった。協力する種はそうでない種よりも生き延びることができる、というわけである。この回答は満足のいくものではない。だが、もし生存競争が世界を支配するのならどうして協力が出現するのか、という問題設定はいまでも有効である…。

そんなわけで、この本は現代では正統派のダーウィン主義、つまりドーキンス利己的な遺伝子説を前提としたうえで、そこからどうして協力が生じるのかを、最近の研究成果を縦横に参照しながら説明しようとした本である*1。具体的には、繰り返し囚人のジレンマ、社会的交換モジュール、感情のコミットメント理論、情報のカスケード、比較優位、共有地の悲劇、といったキーワードで検索の網にかかる有名な研究が紹介されてる。

個人的には、アクセルロッドのしっぺ返し戦略に対する動物学者や経済学者の批判を紹介している4章が面白かった*2。自然界におけるしっぺ返し戦略の事例として、掃除魚やチスイコウモリがよく挙がるけど、これらは動物学者が必死に探してやっと見つかった事例に過ぎず、しっぺ返しはそれほど一般的な戦略ではないとか。経済学者からの批判は、ここで手短に述べるのが難しいが、内容的には以下で山形さんが説明してるような感じ[アクセルロッドのしっぺ返し戦略批判]。

内容の紹介については、とりあえず以上。なお、記事の最初でも言ったように、この翻訳には誤訳が結構あると思う。いくつか紹介しておく。

  • 「この考え方は生存競争と自然淘汰説の一段階を飛ばしたものにすぎない。つまり、個体ではなくグループ単位で考えている」→「この考え方は、生存競争と自然選択を個体から群へと一歩遠ざけているremove ... one step」p.17
  • 「草食動物に食べられることは少ない」→「草食動物が食べても死なないnot killed by grazing」p.148 
  • 「しかしそこでは…証拠はないと述べているだけだ」→「証拠は全くないと述べている」p.161
  • 「突如として裏切られる」→「突如として裏切った/逃亡したdefect」p.165
  • 「結果を左右するチャンスが与えられるとすれば、これは不合理」→「結果を左右する見込みを考えると、これは不合理」p.193
  • 「前章で提案したもう一つの解釈とは厳密には異なる」→前章で提案したのと異なる解釈というわけではないnot really an alternative interpretation p.193

リドレーの本は多くが文庫化されているが、本書はまだ文庫化されていないようだ。訳を修正してぜひ文庫化してほしい。原著はそうする価値のある本だと思う。

*1:利己的な遺伝子説については1章、ウィン=エドワーズの群選択理論は9章で手短に解説されている。

*2:tit for tatをこの翻訳は「お返し戦略」と訳してるけど、「しっぺ返し」のが定訳だと思う。

黄金比

18禁の映画『ニンフォマニアック』(2013年)で、フィボナッチ数とか黄金比とかピタゴラスの定理の話をする場面がある。スクリプトは以下。 

The [Fibonacci] sequence has an interesting connection to Pythagoras' theorem of the Golden Section. It was all about finding out a divine methodology in art and architecture.*1 

挿絵まで出てくる始末である。

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一文目の "Pythagoras' theorem of the Golden Section" というのがよく分からない。とりあえず、最初の図はいわゆるピタゴラスの定理ユークリッド『原論』I.47)と思われるが、これ自体は黄金分割golden sectionとはいちおう別の話だと思う。黄金分割ないし黄金比golden ratioを得るやり方は『原論』II.11に登場する。この命題の証明には、たしかにピタゴラスの定理が使われる。すなわち、三辺の長さの比が

  • 1 : 2 : √5

になる直角三角形を使って、τ = (1+√5)/2 という比を得るわけである。なお、黄金分割はピタゴラス教団にとって神聖な図形である正五角形の作図(『原論』IV.11)に利用されることを付記しておく。

さて、1 : τという比の黄金長方形から正方形を切り取ると、残った長方形はやはり黄金長方形となる。そこで、再び正方形を切り取ってさらに小さな黄金長方形を得る…という操作を無限に続けることができる。次々と縮小していく正方形に内接する四分円をつなげると、二番目の図にあるような対数螺旋ができあがる。対数螺旋は自然界のさまざまな場所で見出されることが知られている。例えば、オウム貝

この次々と縮小していく正方形のパターンはパルテノン神殿にもみられるというのが三番目の図である。もっとも、この当てはめはこじ付けだという意見が一般的である。測る場所を慎重に選べば、他の建築物にも同様のパターンが見いだせるだろう。それに、黄金比が流行するのは、パルテノン神殿が建設されてから約1世紀後だという話もある*2

ところで、フィボナッチ数列の隣接する項fnとfn+1の比はnが大きくなると1:τにどんどん近づいていくことが知られている。そういうわけで、これらの話はぜんぶつながっている。『ニンフォマニアック』の女性が口にした「3」と「5」という数字だけから、それはフィボナッチ数列だな、などと突飛な連想をした頭でっかちの童貞セリグマンが考えてたのは、だいたい以上のようなことだと思われる。

なお、この記事を書くにあたってコクセター『幾何学入門』11章を参考にした。

Postscript(2018/1/5)

コクセター『幾何学入門』は黄金比をτと表しているが、上の図ではφと表されている。オルセン黄金比』という本(けっこう胡散臭い本)によると、τはギリシャ語で切断・分割を表す言葉の頭文字に対応するようだ。ギリシャ語は知らないけど、原子atomの語源を考えれば、そんな気もする。他方、φはパルテノン神殿の建築にも携わったフェイディアスの頭文字である(p.2)。

なお、オルセンは黄金分割というアイデアのルーツの一つとして、プラトン『国家』の線分の比喩を挙げている。プラトンは「一本の線分をとり、それを等しからざる部分に二分せよ」(509D)という寓意的な問題を設定した(p.2, p.57)。でも、これは単純に線分ABをAC > CBとなるように分割せよ、というだけのことであって、黄金分割せよと言ってるようには見えないが…。たしかに、黄金分割の話から線分の比喩を連想するのは自然だし、プラトン黄金比を知っていてもおかしくはないと思うけれど、『国家』の訳注や手元にあるプラトンの解説書の類をざっと見たところ、黄金比との関連を示唆するものは見つけられなかった。

ボロノイ図

最近、ボロノイ図Voronoi diagramというものを耳にした。直観的な説明としては、平面上に複数個の点が与えられたときに、それらの点への近さによって平面を領域分けした図のこと。領域と領域の境界線は、与えられた点と点の二等分線(の一部)になる。詳しくは、wikipediaの記事を参照。

この記事によると、「ボロノイ図の利用例は(きちんとそれが定式化される以前も含めれば)1644年のデカルトまで遡ることができる」。どの文献か記されてないが、1644年は『哲学原理』が出版された年なので、おそらくこれだろう(『幾何学』ではないのか…)。

どんな風に使われてるのか。デカルトは宇宙が無数の渦巻き運動の集まりで、その渦巻きの一つ一つの中心が恒星で、そのまわりに惑星が浮かんで回る、と考えていた(渦動説)。で、それを以下のような図でイメージした。

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この図は以前、野田又夫デカルト』(岩波新書)という本を読んだときに目にしたことがある(p.141)。たしかに、何となくボロノイ図っぽく見える。なお、図の上のほうにあるウネっとした曲線は天の川だそうです…。

リリカルLISP

最近プログラミングの勉強を始めてみた。どの言語を学ぶか迷ったけど、初心者らしく(?)Pythonを選択。Pandasの扱いに四苦八苦してますが、私は元気です。

プログラミングといえば、随分まえに「リリカルLISP」というフリーゲームをやったことがある。LISPの知識を前提せずに作られているゲームだが、おそらくかなり初歩的なところで終わっているので、クリアしても実用的な知識は身に付かない。それでも練習問題は初心者にはハードで、昔やったときは結構苦労した記憶がある*1

とはいえ、さっきこのゲームのことを思い出してちょっと遊んでみたところ、さほど苦労せずにクリアできたので以前よりプログラミングに慣れたのかもしれない*2。感想としては、とりあえず「末尾再帰、最高!」といったところ。

検索したところweb上には解答例がないようなので、記念にでも記しておこうかと思う。序盤の問題はあまりにも簡単なので、第6回あたりから。

  • 第6回 (define s (lambda (n) (if (= n 0) 0 (+ n (s (- n 1))))))
  • 第7回 (define len (lambda (x) (if (null? x) 0 (+ 1 (len (cdr x))))))
  • 第8回 (define f (lambda (x) (lambda (n) (+ x n))))
  • 第9回  (define (si n x) (if (= n 0) x (si (- n 1) (+ n x))))
  • 第11回 (define (map1 f l) (if (null? l) '() (cons (f (car l)) (map1 f (cdr l)))))
  • 第12回 (define (muli x y z) (if (null? y) z (muli x (dec y) (add x z))))

あと、昔プレイしたときはミニゲームをまったく真面目にやらなかったけど、今回はラスボス(なのは)もちゃんと倒した。フェレットのユーノをモグラ叩きの要領で100回以上クリックすると、戦闘時に「たたかう」から「鮫島の怒り」を選ぶことができる。なのはを倒すより難しいのは、バッティングのミニゲーム(リインが投げるボールをヴィータが打つ)で、タイミングが分かりづらい…。「ホームランダービー」と違って安打でも許されるのが救いか。

*1:というか、昔はこのゲームの元ネタの「リリカルなのは」すら見てなかった

*2:このゲームの一番の難しさはインタプリタが一行しかないところだったりする。

科学を語るとはどういうことか

 最近読んだ本。

なかなかドギツイ表紙である。副題は「科学者、哲学者にモノ申す」。通俗的な哲学本で因果性について胡散くさいことが書いてあるのを見て驚いた物理学者の須藤先生が、いったい哲学はどういうことになってるんだ、という不信感をもって科学哲学者の伊勢田先生にいろいろ質問するという趣旨。

お互いの関心がなかなかかみ合わなくて、読んでいて隔靴掻痒の感があるが(話している当人たちはもっと痛感してるだろうけど)、読んでいて楽しい本である。当然ながら須藤先生は哲学のことをあまりご存じないわけだが、随所に鋭い突っ込みをしていて、非常にいい。個人的には、パラダイム転換にともなうクーンロスに関するコメント(2章p.57あたり)にしびれた。

科学実在論論争についての章もある(5章)。須藤先生は反実在論(ファン・フラーセンの構成的経験主義が念頭に置かれてる)の内容・眼目を理解するのに苦しむことになる。須藤先生の不満はこんな感じだろうか。量子論に関して、コペンハーゲン解釈をとるか多世界解釈をとるか、といった話題にはコミットしないという話であればまぁわかる(p.201)。でも、肉眼で観察不可能な事柄についてはコミットしないとか言われると「やれやれお話にならない、と判断してしまう」(p.222)。個人的には、ここは伊勢田先生にもう少し踏ん張ってほしかったところだが、もう十分すぎるほど頑張ってるような気もするので無いものねだりかもしれない。

なお、1章では哲学への不信つながりでソーカルとブリクモンの例の本に触れている。須藤先生はハッキリと

本来、比喩というのは、そのままではわからないことをより平易な例を用いて理解してもらうために用いるべきものです。内容がないからこそ、だれも理解できないだろう、とたかをくくって、めちゃくちゃな科学用語の乱用で煙に巻く。そんなことは決して許されるべきではありません。p.24

筆が滑った程度のことで済ませて良いようなレベルなのでしょうかねえ。p.25

と言っている*1。私も「まったくその通りだなぁ」と思うが*2、伊勢田先生は注意点として、例の本で批判されている人々は一枚岩ではなく科学社会学者とかも含まれてること、この本で批判されてる人々が哲学者の代表というわけではないことなどを指摘してる。まぁそれでも、

ラカンのように中心的な主張でわざとそういうことをやっている人はやっぱり別扱いになると思います p.36

と切り捨ててるのには草生える。

他にも、哲学業界における査読制度の説明とか、哲学には大きく分けて論理学・認識論・形而上学・価値論の四つの分野がある、みたいな説明もされている。この辺は、哲学業界をよく知らない人(かく言う私も)に有益な情報であろう。

inverted burial

One Piece』46巻にある一コマについて。

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以前このブログで、プラトンやらアリストテレスが人間を逆さになった植物とみなしていた、という話題を紹介したことがある。人間が口から栄養摂取するように、植物は根から栄養摂取するので、口と根が対応してるとか何とか。神崎繁先生によると、中世の絵画で逆さまに地面に埋められている人間が描かれてるのは、それの影響なんだとか*1。本当だろうか。というか、中世からこんな構図の絵があったりするの?

逆さまといえば、新約聖書外典の「ペテロ行伝」には、ペテロがローマで殉教したときに逆さ十字にかけられた、という話がある。しかし、なんで逆さ十字?イエスと同じポジションで殺されるのは恐れ多いと思ったとかいう説明をよく見かけるけど、ほんとかいな…。

関連記事

*1:『西洋哲学史I』(講談社メチエ)p.420