Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

リドレー『徳の起源』

マット・リドレーの『徳の起源』を読んだ。以前、途中まで読んだのだが、難しくて止めてしまった覚えがある。今回はいちおう最後まで読みきったが、正直理解できなかったところも多い。ただ、中盤で誤訳をいくつか見つけたので、これが以前読むのを諦めた原因の一つかもしれない、とも思った。翻訳については後で触れるとして、まずは、この本のテーマを紹介する。

この本は、ロシアのアナーキスト思想家として知られるクロパトキンの物語からはじまる。イギリスに亡命したクロパトキンは、「自然は利己的な生物どうしの非情な闘争の舞台である」と言ったトマス・ハクスリーを批判して『相互扶助論』という本を書いた。協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もそうだとクロパトキンは考えていたからだ。生存競争から利他的行為が生まれるとは信じられなかった。こういう信条の背景には、帝政ロシアのもとで監獄に入れられた彼の個人的な経験がある。クロパトキンは友人たちの協力で脱獄できた。友人たちが助けてくれなかったら脱獄なんてできなかった、と。

さて、しかし、クロパトキンは協力がどうやって進化したのか、という問いに悪名高い群選択の理論で答えるしかなかった。協力する種はそうでない種よりも生き延びることができる、というわけである。この回答は満足のいくものではない。だが、もし生存競争が世界を支配するのならどうして協力が出現するのか、という問題設定はいまでも有効である…。

そんなわけで、この本は現代では正統派のダーウィン主義、つまりドーキンス利己的な遺伝子説を前提としたうえで、そこからどうして協力が生じるのかを、最近の研究成果を縦横に参照しながら説明しようとした本である*1。具体的には、繰り返し囚人のジレンマ、社会的交換モジュール、感情のコミットメント理論、情報のカスケード、比較優位、共有地の悲劇、といったキーワードで検索の網にかかる有名な研究が紹介されてる。

個人的には、アクセルロッドのしっぺ返し戦略に対する動物学者や経済学者の批判を紹介している4章が面白かった*2。自然界におけるしっぺ返し戦略の事例として、掃除魚やチスイコウモリがよく挙がるけど、これらは動物学者が必死に探してやっと見つかった事例に過ぎず、しっぺ返しはそれほど一般的な戦略ではないとか。経済学者からの批判は、ここで手短に述べるのが難しいが、内容的には以下で山形さんが説明してるような感じ[アクセルロッドのしっぺ返し戦略批判]。

内容の紹介については、とりあえず以上。なお、記事の最初でも言ったように、この翻訳には誤訳が結構あると思う。いくつか紹介しておく。

  • 「この考え方は生存競争と自然淘汰説の一段階を飛ばしたものにすぎない。つまり、個体ではなくグループ単位で考えている」→「この考え方は、生存競争と自然選択を個体から群へと一歩遠ざけているremove ... one step」p.17
  • 「草食動物に食べられることは少ない」→「草食動物が食べても死なないnot killed by grazing」p.148 
  • 「しかしそこでは…証拠はないと述べているだけだ」→「証拠は全くないと述べている」p.161
  • 「突如として裏切られる」→「突如として裏切った/逃亡したdefect」p.165
  • 「結果を左右するチャンスが与えられるとすれば、これは不合理」→「結果を左右する見込みを考えると、これは不合理」p.193
  • 「前章で提案したもう一つの解釈とは厳密には異なる」→前章で提案したのと異なる解釈というわけではないnot really an alternative interpretation p.193

リドレーの本は多くが文庫化されているが、本書はまだ文庫化されていないようだ。訳を修正してぜひ文庫化してほしい。原著はそうする価値のある本だと思う。

*1:利己的な遺伝子説については1章、ウィン=エドワーズの群選択理論は9章で手短に解説されている。

*2:tit for tatをこの翻訳は「お返し戦略」と訳してるけど、「しっぺ返し」のが定訳だと思う。