Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

トリソミー

最近、親戚の子供が生まれつきの障害で苦労しているという人の話を聞く機会があった。18番目の染色体の異常によって生じる遺伝子疾患で、18トリソミーという。恥ずかしながら全く知らない障害だったので、その後で自分なりに少し調べたことをメモしておく。

そもそも「トリソミー」とは何か。ヒトは23対、合計46本の染色体をもっている。生殖細胞が作られるときには、ペアとなる相同染色体が接合してから分裂する。このプロセスを減数分裂という。減数分裂により、卵子精子はふつうの体細胞がもつ遺伝情報を半分だけ持つことになるが、受精によって、染色体がペアとなることで遺伝情報の全体が取り戻される。問題は、減数分裂のプロセスで失敗がたびたび起こることである。よくある失敗は、ある染色体のペアが分離し損なうケースであり、これを不分離という。そして、ペアのまま染色体が生殖細胞に入ってしまうと、受精したときには一本の過剰な染色体をもつことになる。これがトリソミー(三染色体性)。

ヒトの場合、とくに21番目の染色体で不分離が生じやすく、そのため21番目の染色体を余分に持つ新生児が生じる。この状態を21トリソミーといい、この異常によって生じる障害がダウン症である。ダウン症は新生児600-1000例に一人の割合で生じる。結構な割合に思える。なぜ、21番目の染色体で不分離が生じやすいのか、あるいは、なぜ他の染色体では不分離がそれほど生じないのかはよく分かってないらしい。

こういうことは、スティーブン・グールドのエッセイ「ダウン博士の症候群」に結構詳しく書かれている*1。以前グールドのエッセイを読んだとき、私は「他の染色体では不分離がそれほど生じない」の「それほど」を見逃していたので、他の染色体ではトリソミーは生じないと誤解していた。しかし、そんなことはない、という例がまさに今回のケース、つまり18トリソミーエドワーズ症候群)である*2wikipediaによると、文献によって数字にバラツキはあるものの、3,000-10,000人に一人の割合で生じるらしい。たしかに、21トリソミーの確率よりはだいぶ低い。

18トリソミーによって生じる身体的かつ精神的な障害はダウン症と比べても極めて重く、男児の場合にはだいたい死産してしまう。生まれても生後1年以内に亡くなることが多いらしい。お笑いタレントのレイザーラモンRGハードゲイじゃないほう)は、娘を18トリソミーで亡くしたという記事を目にした。

ただ、私が話を聞いたケースでは、もう3歳になるとのことだった。うまくいけば、最近の治療によってある程度長生きできるのかもしれない。

写真を見せてもらったところ、3歳とは思えないほど小さな体だった。言葉も話せないようだが、両親を認識することはできるようで、とても可愛いとのことだった。

*1:『パンダの親指』15章。このエッセイ自体は、ダウン症の発見と、その背後に隠れている反復説とさらにその背後に隠れている人種差別を告発・批判するものである。グールドを読みなれてる人には、「いつもの」という感じだろうか。

*2:他にも、13トリソミー(パトウ症候群)などがある。

月距法

最近、歴史が面白いと思えるようになっていて、色々と啓蒙書を読んでいる。次の本はユニークで面白いと思った。 

世界の歴史〈12〉ルネサンス (河出文庫)

世界の歴史〈12〉ルネサンス (河出文庫)

 

14-16世紀あたりのイタリアを中心に、興味深いエピソードを沢山紹介している。博識のおじさんの話を聞いているようで、純粋に楽しい。単に昔の話をしているだけでなく、現代とのつながりを意識させるような話題もある。例えば、北イタリアと南イタリアの鉄道網を見比べると、前者は直線的なのに、後者は蛇のようにクネクネしている、それはなぜか。こうした謎を解くには、かなり昔に遡らなければならないのだね。

中世後期とルネサンスを連続的にとらえる見方が20世紀になって流行るのだが、著者はそういう方向にはやや背を向けていて、いややっぱりルネサンス期には中世とまったく異なる合理的な精神が登場したんだ、些細な例外事象にまどわされてその断絶を見失ってはいけないんだ、といったスタンスを打ち出してる。このスタンスはプロローグでとりあげられるエピソードによって説得的に示されてる。13世紀の植物図鑑と14世紀の植物図鑑を比べると、前者はとうてい実在すると思えない化け物が描かれてるだけだが、後者ははるかに写実的になっている、とか。画家のジョットは、ヨセフが不安になった理由を、妻がいったい誰の子供を宿したのかと疑問に思ったから、と述べたのだが、こんなジョークはそれまでは到底言えなかった、など。 

話題の取捨選択には、著者の好みによるバイアスがかなりかかっている。

フィツィーノ、ピコ・デラ・ミランドラなどの哲学者、ポリツァーノなどの詩人については、わたしは、もはや何の興味ももてない。もうしわけないがこういう人びとの話は割愛させていただいて… p.136

わたしはエラスムスやトマス・モアはどうもそれほどえらいとは思えない。本当の人文主義者として群を抜きひとり聳えるのは、16世紀のフランスの人モンテーニュである。p.141 

このような書き方は、ふつうの学術書では考えにくいほど主観的といえる。ここまで露骨に価値判断をもちこむことは、普通ないと思う。とはいえ、こういう風に主観が入ってることで文章にある種の勢いとか味わいが加わってるのは間違いない。本書は専門書ではないので、別にいいと思う。個人的に、著者の趣味もいいと思っているし。ただ、註で参照してる文献を示してくれてたらよかったとは思う。そこは本当に残念。

残念ついでに、疑問に思った記述も指摘しておく*1。アメリゴ・ヴェスプッチが月距法でベネズエラの経度を測ったという(本当なら)素晴らしいエピソードを紹介してる箇所である。

アメリカ大陸の名のもとになったイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチは、1499年、ベネズエラを発見した際、天体を観測して、8月23日の夜の月と火星との合が6時半だったことを知った。ところが、かれがもっていたレギオモンターヌの航海暦(1473年発行)によると、これはドイツのニュールンベルクでちょうど零時に見られると予測している。そうだとすると、このベネズエラはニュールンベルクより5時間半だけ西へ寄っていることになるはずだ。経度は御承知のように15度につき1時間の時間差がある。アメリゴ・ヴェスプッチはニュールンベルクとベネズエラは32度半の差があると計算したのである。

この観測はみごとなまでに正しかった。p.160

この箇所はいろいろ変だと思う。経度は15度につき1時間の時間差がある(360÷24 = 15)のなら、32度半の経度差だと2時間ちょっとのズレしかもたらさないはず。少なくとも32度半というのは誤植だろう。

をみると、マラカイボ(ベネズエラ)が西経71.38度、ニュルンベルクが東経11.04度なので、その差は82.42度である。15で割ると約5.5なので「5時間半」という記述と整合する。でも、そもそも零時と6時半の差って5時間半じゃないと思うのだが、それは大丈夫なんだろうか…。

*1:ただし、私が読んだのは上でリンクをはった文庫版ではないので、以下の指摘が文庫版では修正されてる可能性はある。あと、ここでのページナンバリングは文庫版とはたぶんズレてるのでご注意。

eternalwind氏追悼

俺は自分が貧乏人の生まれで、貧乏人の立場から見て、「弱者の味方リベラル様」の意見が全く役に立たず、むしろ弱者の敵になってる事実に怒ってるだけのアカウントなんですよ。たまたま受けてるのは、俺と同じような意見が世界的に表面化してるからでしょう。うまく言語化できてる方だと思ってます 

昨日、アルファツイッタラーのeternalwind氏(@juns76)のアカウントが凍結された。

氏はネット上でも有名なミソジニスト・人種差別主義者だった。氏の汚言症は最近になればなるほど悪化の一途をたどっており、ツイッター上で彼から罵倒されたことのある人々は、今回の凍結に胸をなでおろしているか、快哉を叫んでいるだろう。

とはいえ、上のまとめをみれば分かるように、彼の凍死を残念がっている人がいるのも事実である。もちろん、そういう人の中には口汚い罵り合いを野次馬的に楽しんでいただけの下品な人もいるだろうが、他方で、氏の汚言症には辟易しながらも彼がしばしば傾聴に値する指摘をするのを楽しんでいた向きもあると思う。私自身はこの最後のタイプである。彼のアカウントはいずれ凍結されるだろうとうすうす思いつつ、でもそれはちょっと勿体ないと考えて、ツイートをコピペしてメモをつくってきた。たしかに、いまのところはtwilogが生き残っているが

これもいつまで閲覧できるかは分からないし、そもそも論点が整理されてないので読みづらい。そこで、余計なお世話ではあろうけれども、メモの一端を紹介しつつ氏を追悼してみたい。氏のファンはこのメモで彼のことを思い出しつつ偲んでやることができるだろう。また、氏のことを今回の凍死で知って「そんな人いたの?」という読者にも、以下のメモは何らかの役に立つかもしれない。

凡例

  • 以下の文章はeternalwind氏のツイート、amazonの商品レビューの文章からの「おおまかな」引用である。ツイートからの引用の多くはtwilogで検索すれば見つかると思うが、かなり古いツイートはログに記録されてないことに注意。また、amazonの商品レビューは Amazon CAPTCHA を参照。
  • あくまでも「おおまかな」引用であって、厳密な引用ではない。誤字脱字などは一部修正した。また、あからさまな罵詈雑言の類は除去したつもりだ。
  • 文章の順番は、ツイートの時系列には沿っていない。
  • 四角カッコ内の表現は私の方で補っている。脚注についても同様。
  • 文章の書き手はeternalwind氏であって、私ではない。以下で記すことのすべてに私が完全に同意しているわけではないと断っておく。ただし、引用するからには「たぶんそうなんだろうな」「一理ある」と思っているのは確かなので、明らかな事実誤認などを見かけたらコメントで知らせていただけるとありがたい。
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選言特性

論理学のメモ。まず、次の問題を考えてみる*1

Γ |= αvβ ならば、Γ |= α または Γ |= β といえるか?言えない場合には反例をつくれ。 

答えはもちろん「言えない」。Γ = {αvβ} が反例になる。

しかし、これは古典論理の話であって、直観主義だと成り立つのでは?と言われたので少し考えてみた。たしかに、LJのカット除去定理の系で選言特性というものがあるので、完全性定理により

  • |= αvβ ならば |= α または|= β

は成り立ちそうだ。これは古典論理にはない性質であり、例えば、|= αv¬α だが、必ずしも |= α または |= ¬α というわけではない。しかし、直観主義でも {αvβ} |= α または {αvβ} |= β が成り立つとは思えない。上のような選言特性を「Γ |= αvβ ならば、Γ |= α または Γ |= β」へと完全に一般化するのは無理ではないか。

…などと考えつつ論理学の教科書を適当に見ていたら*2、Γをハロップ論理式の集合に制限すれば、LJで「Γ |- αvβ ならば、Γ |- α または Γ |- β」が成り立つとあったので、この辺りが正解っぽいなと思った。確認・証明はご自由に。

*1:|= はトートロジカルな帰結関係をあらわす。

*2:小野『情報科学における論理』

なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか

知り合いから強く薦められたので読んでみた。たしかに、著者は博識で興味深い論点もいくつか提示しているとは思う。wikipediaによると「左翼の小室直樹」と呼ばれてるそうだが。文章のスタイルは(私の知る範囲だと)柄谷行人とかに近いと思った*1

旧来の左翼に批判的なことも言ってるはいるが、ローマクラブは1972年の報告で「成長の限界」を科学的に証明した(p. 140)とか、昨今、ブラック企業など搾取というしかない現象が復活しているのは資本主義の没落の印で、企業は人件費の切り詰めによってしか利益を出せない(p. 140)といった断定などは、いかにも左翼的だ。

本書のタイトルは『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』だが、章ごとの独立性が高く、資本主義が本書の問題意識というわけでは必ずしもない。むしろ、資本主義の誕生も含めた様々な事象に対する一種の文化決定論こそが全体を貫くモチーフと言える。著者によればキリスト教が諸悪の根源である。ヨーロッパの世界制覇、科学の誕生、資本主義の誕生、環境破壊などに、いちいちキリスト教を絡めてくる。

こういう考えは必ずしも著者独自の突飛な思いつきというわけではないだろう。環境破壊とキリスト教の関連などは、リン・ホワイトの仕事が背景にある。こういう意見にはキリスト教の側から色々反論があるだろう。私自身はキリスト教徒ではないが、それでも、「創世記」冒頭の記述が人間は自然を好き勝手にできるという傲慢を正当化しているといった俗説はマユツバだと思う*2。近代の資本主義こそが精神病の原因だという意見にも賛同できない。著者は、今どきの精神医学は精神病の生物学的要因ばかり求めて文化社会的要因を無視している、と批判する(p.129)。しかし、未開社会には統合失調症が存在しないわけではないし、統合失調症をもっともよく予測するのは一卵性双生児が統合失調症であることだということも踏まえるなら、生物学的要因に注目するのは当然だと思う。

なお、本書には日本史について論じている章もある。「私は日本史についてそれほど知識があるわけではないので、本来なら語る資格などないのだが~」と前置きしているのには少し笑ってしまった。ヨーロッパ史とかヨーロッパ思想史なら語る資格があると思ってるんだなぁ、と。その数ページあとで、「古事記」と「日本書紀」という「国史の書が二つもあり、その色合いが違うことは問題にされたことがありません」(p. 203)と言いきってる箇所があったりして、ホントかね?などと思った。

*1:あくまでスタイルの話であって、同じこと考えているというわけではない。たいした論証なしにズケズケ言うところが似てる。

*2:田川建三キリスト教思想への招待』1章などを参照。野獣に対して支配する権利があるというのは、野獣が農作物を食い荒らさないように捕獲する権利だと田川は解釈する。田川によれば、これは聖書が書かれた古代当時の文脈を踏まえれば自然な解釈だし、中世末期のドイツ農民戦争に参加した農民たちも実際にそう解釈した、とのことである。貴族たちは狩猟を楽しみたいがゆえに、野獣が多く森にいることを期待して農民が野獣を捕獲するのを禁止していたのだとか。リン・ホワイトや関が考えるような創世記の解釈がでてきたのは、せいぜい18世紀以降。

形而上学者ウィトゲンシュタイン

形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理

形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理

 

ハイデガーの研究者による、一風変わったウィトゲンシュタインの研究書である*1。主な検討対象は『論考』だが、中期あたりまでの一次資料も活用している。伝記も広く活用しているため、ウィトゲンシュタインの個人史に関心のある読者は、うまく整理されていると感じるだろう。

本書が打ち出すテーゼは「ウィトゲンシュタイン形而上学者である」というもので、著者はウィトゲンシュタインアリストテレスアウグスティヌスボエティウスなどといった過去の形而上学者たちの思考を受け継いでいることを示すことで、このテーゼを論証しようとする。多くの古典が参照されているので、哲学史に関心のある読者はウィトゲンシュタインについて勉強しながら哲学史も学ぶことができるだろう。

また、「意味(Sinn)」の原義は方向である(p.108)とか、「6.43 …世界はいわば全体として減少するかあるいは増加する」を読むときは「月が欠ける(Der Mond nimmt ab)」と「月が満ちる(Der Mond nimmt zu)」といった慣用表現を念頭に置くとよい(p.275)、などといったドイツ語に関する細やかな指摘が織り込まれているのも本書の特徴である。『論考』のドイツ語はそれほど難解ではないにせよ、こういう指摘は多くの読者にとって有益だと思う。

とはいえ、(i) ウィトゲンシュタイン形而上学者であるというテーゼを論じるために (ii) 多くの古典を参照するという本書のアプローチがどのくらい成功しているのか、生産的なのかは疑問が残る。

(i) に関して。著者はウィトゲンシュタインは一般に反形而上学者だと思われていると言う.たしかに、ポパーなどはそう解釈してきたが、現在この解釈がどのくらい一般的に流布しているのかわからない(本書の出版年が10年以上前ということを踏まえても)。また、論理実証主義の影響で形而上学が軽蔑されてきたのは事実だが、現代の分析哲学では形而上学が隆盛を極めており、その意味でも「ウィトゲンシュタイン形而上学者である」というテーゼが「挑発的」(p.3)なのかは疑わしい。

(ii) に関して。ウィトゲンシュタイン自身は「アリストテレスを一文たりとも読んだことがない」と言って(豪語して?)いる。著者によれば、そのことはアリストテレス形而上学から『論考』に光をあてることを妨げない。『論考』を貫く「別様にありうるもの―別様にありえないもの」の区別はアリストテレスに由来するのだから、云々(p.74)。しかし、著者が指摘しているアリストテレスとのつながりは表面的であるように思える。必然的/偶然的に相当する諸概念を用いた程度のことでアリストテレス存在論を継いでいると言えてしまうのなら、現代のほぼすべての哲学者はアリストテレスを継いでいると言えないか*2クワインのいう「アリストテレス本質主義」を全力で擁護するとか、そういう類の作業をやってはじめて、アリストテレスとのつながりを主張することが実質的な価値をもつのではないか。

著者の叙述スタイルは悪くいえば博識をひけらかすだけの衒学的なハッタリに見えることがある。ハッタリは古典の引用にとどまらない。「論理空間の幾何学」と題された節では、幾何学が空間の法則を探究するように、論理学は論理空間の法則を探究すると述べ、クラインによる幾何学の定義を引用する(p.96f)。

空間R内に、RをR自身の上へ変換する一つの変換群Gが与えられた場合、Gに属する任意の変換で不変な、R内の図形の性質を研究する科学を、群Gの幾何学という。 

著者によれば、事実と事実の像である命題はともに事実であり、同じ空間Rの中にある。事実を命題記号へと射影する仕方が変換群Gなのだそうだ。しかし、その変換群は「RをR自身の上へと変換する」のだろうか。命題は一種の事実であるが事実の全体ではないのに…。「事実から言語Aへの変換をa」とするとあるが(p.98)、それだとa*aという演算はどういう変換に対応するのだろうか。これらはこの節を読んで抱いた素朴な疑問で、私の単なる勘違いなのかもしれないが、『論考』の論理学が厳密な意味で幾何学だとか群だという主張には正直当惑させられた。

そもそもハイデガー研究者がなぜウィトゲンシュタインの本格的な研究書を書くのだろう、と疑問に思う人もいるかもしれない。たしかに、ウィトゲンシュタインハイデガーに関して好意的なことも言っている(p.69f)。だが、これだけでは「本格的な」研究書を書く動機として乏しい。『論考』の中に素晴らしい洞察があるからこそ取り上げるに値すると考えたに違いない。それはなにか。

著者は「論理定項は消え去ることができる」というテーゼを『論考』で提示された洞察として高く評価している。このフレーズは1914年10月25日の日記に出てくるが、『論考』でも4.013節に「私の根本思想」としてほぼ同じことが述べられている。著者がこのフレーズを重視するのはもっともであり、異論はない。ただし、その解釈となると話は別である。

まず、著者は「論理定項」として、「かつ」「すべて」などの論理語に対応する論理的普遍のようなものだけでなく、「愛する」のような関係語に対応する普遍まで含めていることを指摘しておきたい。著者はこの解釈をラッセルの『数学の原理』1節からの引用によって正当化している(p.84f)。

論理定項は次のものによって定義可能なすべての概念である。つまり、含意、項がそれの要素である集合との項の関係、「ようなものsuch that」という概念、関係の概念(the notion of relation)、そして上述の形式をもつ命題の一般的な概念に含まれうるような諸概念である。 

この箇所を読むと、ラッセルのいう「論理定項」には関係の概念が含まれているが、愛する関係が論理定項なのかは疑わしい。「関係」と「愛する」は別ではないだろうか。

たしかに、『論考』の中のいくつかの箇所が性質や関係は対象ではないとしているように見えるのは事実であり、それらを典拠にして、ウィトゲンシュタイン唯名論的だと言うのは結構なことだ。しかし、この解釈を「論理定項は消え去ることができる」というテーゼからの帰結として導くのは強引に思える*3

また、論理定項(論理的普遍)が存在しないことの何がそんなにありがたいのかも考える必要がある。本書を一読した限りで思いつく可能性は、普遍者も存在するという実在論よりも個体だけが存在するという唯名論の方が存在論的に倹約だから、といったところだ(pp.113-117; cf. p.90)。たしかに、存在論的倹約(著者はこんな表現は使ってないが)はいいことだ。しかし、論理定項は消し去ることができるという洞察は、むしろ論理的真理のアプリオリな性格を説明するという課題と結びつけられるべきではないか。*4。 野矢茂樹の論考本を読んだ人なら、そう考えるのが自然だろう*5

ちなみに、本書ではNオペレータの説明が他の文献("A Wittgenstein Dictionary")に丸投げされている(p.336n21)。もう少しself-containedな構成を目指してほしいところだ。先に紹介した幾何学の話も含めて、テクニカルな部分の解説は全体的に杜撰であり、細かなミスもみられる。例えば、ab関数について説明するくだりを見てみよう(p.109)。

命題pを否定するとどうなるのか。否定命題(~p)は、pを真とした事実を偽とし、pを偽とした事実を真とする。それは「WpF」に対して、否定命題(~p)を「FpW」とすることである(6.1203)。

言いたいことは分かるが、テキストに従うなら、正しくは「F-WpF-W」と書くべきであろう(6.1203)。著者は、Sinnの原義は方向であるという語学的な論点にひきずられすぎているように思う。

結論としては、本書は哲学史ウィトゲンシュタインの個人史に強い関心をもつ読者には推薦できる。ただし、論理学に関心のある読者には向いていないと思う。

*1:cf. 言語行為と規範倫理学(00)目次 | 永井俊哉ドットコム

*2:ついでに言うと、著者は、アプリオリ/アポステリオリの対と必然的/偶然的の対をほとんど区別してないように思われる。「別様にありうるもの―別様にありえないもの」の区別は偶然的/必然的の由来と言えるだろうが、アプリオリ/アポステリオリの区別の由来は、本性上より先/われわれにとってより先、という『分析論後書』1巻2章の区別のほうがふさわしいと思う。

*3:仮にこの解釈を認めたとしても、別の解釈上の問題が生じることに著者は触れていない。それはよく知られた問題である。つまり、性質が対象でなければ性質を指示する名もないということであり、命題が名の連鎖だとすれば、個体に性質を帰属する命題はどうなるのだろう、という問題だ。

*4:1915年6月1日の日記には次のようにある。「私が書くすべてのものは大問題を中心として動いているが、その大問題とは、世界のうちにアプリオリな秩序があるのか、そしてあるとすればどこに存するのか、である」著者もこの箇所を引用してはいる(p.142)。だが、引用の目的は『論考』の中心問題が存在論に関わるということを示す、という奇抜なものだ。

*5:野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』

命題変数

古典命題論理についてのメモ。命題論理において

  • A v not-A
  • A → A

のような式はトートロジーと呼ばれる。Pをどのように解釈しようと、これらの式は常に真になる。

この「どのように解釈しようと」という部分を、対象言語の中で直接に表現する方法として、命題変数に量化を行なうという手段がある。それによって、例えば

  • ∀p(p v not-p)

といった表現を得ることができる。

命題変数への量化を言語に導入すると、否定や連言や選言を定義することができるようになる(ラッセル=プラヴィッツ翻訳)*1

  • ¬A =df (A → ∀p p)
  • A & B =df ∀p( (A → (B → p)) → p)
  • A v B =df ∀p( (A → p) → ((B → p) → p) )

否定に関しては、不合理を∀p p で定義できるというのがミソになっている。EFQは全称例化の推論としてシミュレートする。

*1:cf. Russell, Principles of Mathematics, sec. 18-19