Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

利子の禁止

最近、モンタネッリ『ルネサンスの歴史』を読んでいるのだが、カトリック教会に対する批判的なスタンスがあちこちでにじみ出ていて面白い。例えば、14世紀の商人たちを紹介する12章にはこんな話がある。

金を持っているのが教会だけだった時代、教会は法外な利息で金を貸していた。ところが、世俗の私的資本が形成され始めると、アウグスティヌスとヒエロニムスの言葉を急に思い出して、金銭の移動による利得はすべて不正だと決めつけた。そのくせ聖職者は金貸しをやめなかったのだが、俗人が同じことをすると破門した。トマスは「正当な利子」なら合法だと言ったが、何が正当なのかをはっきりさせなかった。銀行家は非難をかわすために、高利の罪をおかすのは魂だが、銀行組織には霊魂がないから高利の罪はおかしえないと論じた…。

もしこの記述が事実だとすると、教会は一貫して利息をつけて金を貸すことに手を染めていたことになり、興味深い。大澤真幸の本とかを読むと*1、彼はウェーバーに追随しているので、資本主義の起源はむしろ資本主義に敵対的な心性に求めなければならない、としている。キリスト教は他の宗教と同様に利子を禁止していたが、締め付けがあまりに強かったので、そこから資本主義が出てきた、というストーリーを彼は何とかして描こうとする。でも、モンタネッリの言う通りなら、そもそも教会は最初っからガバガバだったのではないか。最初からガバガバなら、なし崩し的に利子をとることがアリになっていった、としても奇妙ではない。

ついでにいうと、大澤の議論には別の疑問もあると思う。彼は「ウスラ」を利子と同一視したうえで、不当とされた利子がどうして許容されるようになったのか、という形で問題を立てている。だが、当時でさえ、正当な利子が正当でない利子から分けられていたのではないか。例えば、商売の元手になるような資金の貸し借りにおける利子に関しては、商売が成功して元金以上のお金が返却されることが多く、商人どうしの信頼として内部処理された。つまり、黙認され、社会問題化しなかった。これに対し、消費者金融のようなものも13世紀にはすでにあって、これは困窮した個人に金を貸し付けて破産に追い込むので普通に社会問題化した。こういうケースこそがウスラと呼ばれうる*2。そこで思うのだが、困窮してる人間にすべきことは与えることであって利子をとってまで金を回収するのは不正義だ、という感覚は利子が一般化している現代人でもそれなりに理解できるのではないだろうか。もっとも、現代人だったら、悪いのは利子そのものというより利息請求が法外であることだ、と考えるだろうけど。

*1:例えば、『文明の内なる衝突』、『世界史の哲学 中世編』、『ふしぎなキリスト教』など

*2:八木雄二『神を哲学した中世』4章

フレーゲ著作集5

5巻の編者解説を読んだ。

フレーゲ著作集〈5〉数学論集

フレーゲ著作集〈5〉数学論集

 

このシリーズのほとんどの巻で編者解説を書いているのは野本和幸先生だが、5巻は飯田隆先生である。大筋としては、フレーゲは同時代の数学の哲学者たちと論争を繰り広げており、そうした論争状況を整理することでフレーゲの立場というのも明確になるであろう、と。短い文章ながらかなり勉強になった。メモを残しておく。

フッサール

フッサールが『算術の哲学』における心理主義をまもなく撤回したのはフレーゲの影響による、というのがかつての通説だった。しかし、モハンティによる詳細な研究により、フレーゲの批評が出るよりも前にフッサール自身の手によって心理主義は葬られていたことが明らかになったらしい。p.327

ヒルベルト

幾何学の基礎』における公理についてのヒルベルトの考え方は革新的で、現代論理学の創始者フレーゲであってもその革新性を理解できなかったというのが1960年代くらいまでの通説だった。しかし、この評価は20世紀後半に大きく変わった。p.327f

この点(フレーゲヒルベルト論争はフレーゲ勝利だった)は『言語哲学大全』でもさりげなく触れられていた*1。私は飯田先生の立場に共感するのだが、しかし、この評価が本当に学界で定着しているのかはちょっと疑問だったりする。シャピロの『数学を哲学する』とか、割とフレーゲに冷淡だったし。

*1:言語哲学大全2』pp.178-179

日本史の誕生

東洋史の有名な研究者の本を読んでみた。

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)

 

岡田氏の本を読むのははじめて。分かりやすく書かれている本で、はっとさせられる箇所もあって勉強になった。

ただ、「岡田史観」などと言われるくらい独特な歴史観の持ち主だということは、ざっと読むだけでもよく分かった。たとえば、邪馬台国の位置に関して、畿内説でも九州説でもなく瀬戸内海沿岸だと主張しているとか、「日出処の天子」は推古天皇ではなくそもそも推古天皇は存在自体うたがわしいとか、『古事記偽書説とか。私は別に日本史に詳しいわけでもないが、これらはたぶん通説とは違うだろうなと思う。邪馬台国畿内だろうし、推古天皇は実在しただろうし、『古事記』は本物なんだろう、と漠然と思っていたし、本書を一読しても意見を変える必要はあまり感じなかった*1

印象としては、中国側の資料をかなり信用しているなぁ、ということ。たしかに、『魏書』に「西域伝」がないことの謎解きと、その結果として「倭人伝」の地理的記述には信ぴょう性がないことを証明するところなどはかなり読ませる部分であって感動したのだが、その一方で、推古の非実在性を主張するところで参照している『隋書』については中国側が嘘を書く理由などないとかいって、男王に会ったという記録をあっさり受け入れている。うーん、でも「明史日本伝」とかの記述のデタラメっぷりをみると、嘘を書く理由があろうがなかろうが、中国側の異国人に関する記述ってかなり歪んでるんじゃ…。ちなみに「明史日本伝」のでたらめな記述として、岡田は次の箇所を引用している。

日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の人の下男だという。すばしっこくて口が上手いので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。…信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが。変事を聞いて武将の行長らとともに、勝った勢いで軍隊をひきいて帰り、明智を滅ぼした。p.33 

「信長の参謀の阿奇支」って誰だYO!

あと、細かいけど気になった点を一つ。天皇号の成立時期に関して、本書は通説通りに天武朝あたりと推測している。でも、以前このブログで紹介した東島・與那覇『日本の起源』は推古朝の時期というのが最近の見解とか言ってるのよね*2中宮寺が所蔵する「天寿国繍帳」という資料に天皇号がでてくるのが根拠とされるのだが、問題はこれが本当に推古時代の資料なのかどうか。岡田はそんなの国史学界では昔から偽物だと言われているだろ、と一蹴している。たしかに、天皇号の成立と「日本」という国号の成立がほぼ同時であればエレガントだとは思うが、本当のところはどうなんだろう。

ところで、個人的には岡田の歴史観というか方法論にもあまり好きになれないところがある。考古学や比較言語学は歴史の代用にはならないとか、発掘された遺物に文字が書いてあってしかもそれが政治と関係なければ歴史の材料にならない、とか。歴史の対象を政治に限定しすぎるがゆえの言語観念論っぽい感じがあって、どうも自分とは趣味が合わない。

*1:たしかに『古事記』序文は胡散臭いなとは思ったけど、でも本文まではどうだろうか。

*2:東大系の研究者は推古朝説をおす傾向にあるらしい…。http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/2007-05-21/s001/s018/pdf/article.pdf

ロビンソン算術

ロビンソン算術Qは以下7つの式(の全称閉包)を公理にもつ。

  • Sx ≠ 0
  • Sx = Sy → x = y
  • x ≠ 0 → ∃y(Sy = x)
  • x+0 = x
  • x+Sy = S(x+y)
  • x・0 = 0
  • x・Sy = (x・y)+x

不等号は次の定義によって導入する。

  • x < y ≡ ∃z(x+Sz = y)

フランセーン『ゲーデルの定理』はよく似ている公理系を提示している*1。これは、上の3番目の公理の代わりに、不等号に関する3つの公理をおく。

  • (x = y v x < y) v y < x
  • ¬(Sx < 0)
  • x < Sy ≡ (x = y v x < y)

こちらの公理系は存在量化子を使わないぶんエレガントに思える*2

しかし、二つの公理系は同値ではなさそうだ。例えば、Qから (x = y v x < y) v y < x を導出できないことを示す反例モデルとして、以下を考えてみた*3。モデルのドメイン自然数に加えて、i, j, k という三つの余分なエレメントからなる。Si = i, Sj = j, Sk = kであり、任意の自然数nについて、n+i = i+n = i, n+j = j+n = j, n+k = k+n = k。そして、i+i = i, j+j = j, k+k = k, i+j = j+i = k, i+k = k+i = j+k = k+j = kとする。このモデルでは i と j の順序関係が決まらないと思う。i ≠ jだし、i+Sz = j となるようなz, j+Sz = i となるようなz は存在しない。間違ってたらごめんなさい。

関連記事

*1:Schoenfieldの有名な教科書(p.22)でも同じ公理系が提示されている。

*2:フランセーンが提示している公理系の式はすべてΠ1論理式だが、x ≠ 0 → ∃y(Sy = x) はΠ2論理式である。

*3:戸田山『論理学をつくる』を参考にした。

人口増加

人類はなぜ農業を始めたのか、という有名な問題がある。素朴に考えると、これは愚問だ。農業は偉大な発明である。農業を始めれば不安定な栄養状態が解消されるだろうし定住することで子育ての負担も減るし、良いことづくめではないか。農業をわざわざ始めた理由を問うのは愚かであり、農耕の可能性に思い至ったから始めたに決まっているのではないか。

しかし、これには重要な反論がある。農耕社会では摂取カロリーの大部分が穀物に偏るためには狩猟採集生活よりも栄養状態が悪くなり、定住によって人口密度があがって疫病に苦しみやすいなど、難点もある。だから、少なくとも「良いことづくめ」ではない。ただし、子育ての負担が減るという利点は残る。そのため、女性の出産周期が短くなり(収穫の総量の増加もあいまって)人口増加が生じたらしい。ここで興味深いのは、いったん人口が増えてしまうと、もはや狩猟採集生活には逆戻りできないということである。単位労働当たりの生産性は狩猟採集の方がよい、つまりラクチンかもしれないが、農業によって増えた人口を狩猟採集で支えることはもはやできない。そう考えると、気候変動(寒冷化とか?)により狩猟採集では食っていけなくなったため仕方なく農業をはじめたものの、今度は農業なしでは生きられなくなった、といったシナリオが想像できる。この異論は細部では修正の余地があるものの、大筋では正しいと思われる。

最近知ったのだが、どうも同じような対比が農業システムの技術改良に関しても成り立つらしい*1。農業と一口にいっても焼畑のような休耕期間の長いものから、多毛作のように短いものまで色々ある。焼畑農業は単位労働当たりの生産性が高くラクチンなのだが、地力が回復するのに10年以上、20年から25年くらい待たないと持続できない。なので、人口が少ない社会では焼畑は有効だが、多くの人口を支えようとすると集約的な農業システムに移行しないといけない。灌漑をしたり家畜の世話をしたり、手間が増えていく。「なんでそんないばらの道を選ぶんですかねぇ…(正論)」といえば、例えば、温暖な気候のもとで収穫量が増えた時期がある程度続いてから、一気に寒冷化したりすれば、いったん増えてしまった人口を支えるには人々の生活水準を落とすか、技術革新をおこすしかない。後者の道は、収穫を上げる代償として、キツい労働が待っている…。

人口増加を否定的にとらえる、このマルサス的な歴史観はたしかに乱暴に聞こえる。人口増加にもそれなりの利点(インフラを維持できるとか、技術革新を起こしやすいとか)があるだろう。しかし、個人的には、この議論はやはり大筋で正しいのではないか、という印象を持っている。ひょっとすると、私はこの議論のシンプルさに惹かれているのかもしれない。比較のため、例えば、次のような文章をみてみよう。

我々が、王を中心とする「再分配機構」の成立について、過度に複雑な説明を与えようとしている、と覆われるかもしれない。しかし、これらのことは、しばしば思われているよりも、はるかに説明が難しいのである。

たとえば、王から奪われることの受容(税を取られることの容認)は、王によって保護されることの体かである、などと説明される。だが、もしそうだとすれば、なぜ、人は王によって保護され、王の支配下に入らなくてはならないのか?

このことは、たとえば、「灌漑を伴う集約的な農業」を実現するのに必要な大規模な共同のために、王の支配に参加する必要があったのだ、などという説明がなされてきた。しかし、ドーヴ(Dove [1985])は*2、ジャワの諸国家を例にとった歴史的・生態学的な研究によって、焼畑ないし粗放的農業」が「灌漑をもつ集約的農業」よりも生産性が低いというのは、全くの誤りであることを示した。確かに単位面積あたりの生産性に関しては後者は優れるが、逆に単位労働あたりの生産性について言えば、前者の方が優れている。つまり、従属者は、農業の生産性について言えば、王の支配の下に参加することで、いささかも利益をうけていないのである*3。 

大澤が提唱する「複雑な説明」とやらは成り立つはずがない、とまでは言わない。しかし、赤字部分の論証には flaw があるのではないか。「つまり」より前の観察からそれ以後の結論を導くことができるとは思えない。単位労働当たりの生産性が落ち込んでいるにもかかわらずそれを手放せない理由は、上で紹介したような理路でもっとシンプルに説明できるんじゃないだろうか。大澤は対抗仮説relevant alternativeを棄却するのに失敗していると思う。

関連記事

*1:リヴィ=バッチ『人口の世界史』

*2:「ダブ」の方が適切な気もする。

*3:大澤真幸『行為の代数学』p.330n7

コスパ

千葉雅也の次のツイートは色々考えさせられる。

ギャンブルってぜんぜん興味ないんだよ。だって損する可能性があるんでしょ。端的に言って、絶対に損したくないもん。ところで、ヘーゲルの翻訳をしっかり読み込むというのは、どうやっても絶対に損しない行為だね。だからヘーゲル読む方がいい。https://twitter.com/masayachiba/status/779503687215353856 

思うに、「しっかり読み込む」というのがポイントであり、中途半端にヘーゲル著作に手を出して意味が分からないと投げだして結局何も身につかない、という可能性は考慮に入れられていない。(理解できるまで)読み込むという行為は、定義によって損をしない行為なのだろう。

たしかに、これは意地悪な難癖であって、中途半端なところで投げだしたら何も得るところはないというのは何事にも当てはまる。しかし、多くの人にとってヘーゲルは超難解なのであり、「しっかり読み込む」という行為が成立するために投入しなければならない労力は相当なものだと予想される。それだけの労力を投入できる人はごく少数にとどまる以上、千葉のアドバイスは一般向けに受け取られるべきではないと思う。ちなみに、私だったらフレーゲを推奨しますかね。

常識的に考えて、分析哲学はフランス現代思想とかと比べて、コスパとか元をとるまでに必要な労力とか圧倒的にハードルが低いだろうと思う。これは私が分析哲学にシンパシーあるからというだけでなくて、哲学史に造詣の深い人ならみな思ってることなんじゃないか、と。例えば、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』には、ラカンの情報概念を理解するためにはどのくらいのバックグラウンドが必要なのかを説明してる箇所とかあるけど*1哲学史の素養のない人間からすると絶望的な気分になるよね。

関連記事

チョムスキー雑感(3)

半年くらい前に、山形浩生が訳したThe Economist誌のチョムスキーに関する記事を読んだ。

極小プログラムとか全然知らない門外漢だけど、この紹介[特に前半]はやっぱりアンフェアではなかろうか。まるで、我々の言語能力の中核をなすのは併合の操作だけであるかのように書かれていて、移動の操作には触れられていない。人工言語と違って自然言語には移動という現象があるという点で特異であり、なんでそんなことになっているのかを説明したくてたまらない、というのが生成文法の理論家のguiding ideaなのではないか、と素人の私は勝手に思っている*1

あと、この記事でリンクが貼ってある『生成文法の企て』に対する書評と、それに対するfinalventという人の批判記事にも軽く目を通した。批判記事というのは以下。

かなり辛辣な文体だと思うのだが、批判された山形氏の方は、何が悪かったのか全然分からない、というようなことを書いている。つまり、話がかみ合っていないわけだ。

最初に、山形氏が「言語器官」という表現を使ったことに対し、チョムスキーは「心的器官」と言うことはあるが、「言語器官」と言うことはあっただろうか、とある。個人的には、これはつまらない揚げ足取りだと思う*2。とはいえ

人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。 

という文章がいかにも「分かってなさそう」であることは否定できない。一番マズそうなのは「変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)」という表現だろうか。でも、「変形」と言ってるからといって、D構造がなんたらとか書いているのは、悪意を感じる。山形氏がここでどういうアイデアを紹介しようとしているのかは、チャリティを働かせれば理解できるのではなかろうか。たぶん、原理・パラメータのアプローチの話を紹介したいんでしょ[違うかもしれないけど]。原理の知識をもった初期状態があって、言語的刺激がトリガーとなって、最終的に特定の自然言語の文法の知識をもった状態になる。言語的刺激から帰納的に自然言語の文法規則を推論するのではなくて、言語的刺激はパラメータの値をバシバシ決めていくようなものだ、とか。マーク・ベイカーの本とか読むと、そんな感じのアイデアがもっと丁寧に紹介されてる。

*1:渡辺明ミニマリストプログラム序説』の最初の方を眺めたことで得た印象。

*2:ちなみに、少し調べたところ、New Horizons (2000), p.4 には "language organ" とある