哲学で大学院に行けるかどうかの基準は単純であって、『精神現象学』を読む体力があるかどうか、そして、カント哲学をそれなりに自分なりに理解できるかどうか、というのが俺の考え。それができない人にはちょっとキツイと思うな。
— 國分功一郎 (@lethal_notion) 2014, 8月 12
この基準だと、分析哲学者の大半があぶれることになりそう。そもそも、なんでカントとヘーゲルなんだろう。何というか、こういう主張は分からなくもないけど、たぶんある種の教養主義なんだろうと思う。
ちなみに、哲学の教養を持ち合わせているかどうかに関しては、別の基準も提案されている。分析哲学者の柏端先生によると
オーストラリアは現代哲学の知る人ぞ知る中心地の一つである。「オーストラリアの哲学」と聞いてどういう反応を示すかによって、哲学という学問に関してはその人が素人かどうかを見分けることができる*1。
この基準だと、今度は大陸哲学の研究者の多くが哲学の素人になりそうだ…。國分先生とか絶対知らないでしょ。