Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

偽記憶(2)

一時期の大澤真幸は、偽記憶症候群に関心を持っていたらしい。たとえば『現実の向こう』(2005年)の2.5節、『美はなぜ乱調にあるのか』(2005年)所収の「Ghost in the Patlabor」、『不可能性の時代』(2008年)5章あたり。

大澤は多重人格から話をはじめる。多重人格の患者は、カウンセリングの中で幼児期の性的虐待の記憶をとりもどすことがあり、それでカウンセラーたちは性的虐待が多重人格の原因だ、という説に飛びついた。でもそれは偽記憶でした、と。そのため虐待の疑いで告発された親が、逆にカウンセラーを告発するケースも出てきている。

大澤はまず、幼児期の虐待が多重人格の原因、という説はフロイトの複雑なヒステリーの理論と比べて過剰に単純でありお話にならない、とする。ここまでは先日紹介したロフタスとよく似ている。だが、大澤はロフタスのようにカウンセラーが偽記憶を植え付けたという風には解釈しない。むしろ、偽記憶症候群ではいわば二重の隠蔽があると言う。患者は心理的に認められない内容Xをまず隠蔽し、Xよりは比較的マシである内容Yによってさらに塗り固めている。そうすると、カウンセリングによって引き出されるのはせいぜいYまでであって、Xには到達できない。ここでいうYが幼児期の性的虐待に相当する。幼児期の性的虐待は悲惨だが、それと比べればまだマシであるような内容Xが隠れているはずだ、という風に大澤は議論を進める…。

しかし、有力な対抗仮説であるはずのロフタスらの懐疑論に触れることもせずに、こういう思弁にふけることにどんな意味があるのか。Xの記憶を隠蔽してそれをYで更に塗り固めるみたいなことを簡単に言うが、そういう心理的カニズムがあるという経験的証拠はどこにあるのだろうか。YはXに比べればまだマシというが、ロフタスの本とかを読む限り、カウンセリングによって患者は更に調子が悪くなってる。そうなると、一体何のための防衛反応なのか分からない。そして、Xに入るべき内容が例によって抽象的すぎる。第三者の審級の崩壊っていったい何だよ*1

*1:大澤は湾岸戦争症候群についても偽記憶症候群との関連で触れている。湾岸戦争症候群の原因が何なのかはたしかにはっきりしていないが、しかし、化学兵器処理の際に有毒物質に汚染されたという見方が有力である。矢幡『怪しいPTSD』p.205f

偽記憶

記憶研究で有名なロフタスの著書を読んでみた。

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

 

ありもしない性的虐待の記憶をカウンセラーに植え付けられた女性が親を訴える、というケースが一時期アメリカで多発した。本書はそうしたケースを数多く紹介し、インチキカウンセラーの所業を科学的心理学の立場から批判したもの。ノンフィクションのドキュメンタリーといったスタイルの本で、やや分厚いがとても読みやすい。人間の心理に関心あるすべての人に薦めたい良書だ。

抑圧された記憶をめぐる論争がアメリカであった、という話はおおよそ知っていたのだが、虐待の記憶をとりもどしたとして親を訴えて家族が崩壊した(or 崩壊に瀕した)数々の事例に関する本書の叙述は生々しく、読んでいて本当に痛ましい。眼に入れても痛くないほど可愛がって育てた娘から、いきなり全く身に覚えのない性的虐待を告発される、娘は真剣だから嘘をついているとも思えない、気付いていないだけで本当の自分は悪魔みたいな人間だったのか、それとも娘はあくどいカウンセラーに騙されているのか、だとしたらどうやってそれを証明したらいいのか…。

問題は「抑圧された記憶」という観念にある。告発者たちは、記憶はビデオテープのようなものであり、一度体験した出来事は脳のなかのテープに書きこまれる、しかし、出来事がトラウマ的な場合には、防衛機制によってそのテープを再生できなくなる、といったことを考えている。これに対し、バートレット以来の記憶研究は、エピソード記憶はビデオテープのようなものではなく、思い出すたびにシナリオが再構成されるのだ、といった立場をとる。体験した出来事の内容は、脳の中に断片的に書きこまれるが、一連の流れとして思い出すときには、断片からの再構成が入る。そこには改ざんの余地が大いにある。

本書の7章では、有名な「ショッピングモールの迷子実験」が紹介されている。実験の背景にあるのは、性的虐待の訴訟が多発しているという社会問題である。記憶の植え付けという一見無謀な所業が可能であることを実験的に示したい。だが、植え付ける記憶はトラウマ的でないといけない。そうでなければ、虐待の記憶をとりもどしたケースとの関連が薄くなってしまう。とはいえ、あまりに深刻な記憶を植え付けるようなことをすれば、研究の倫理上許されなくなってしまう。試行錯誤のすえに思いついたのが、ショッピングモールで迷子になった記憶を植え付ける、という実験。これはマイルドなトラウマ的出来事だろう、というわけだ。

本書は論争の書ではあるが、翻訳の文体もあってか、まったく攻撃的な雰囲気を感じさせない。ロフタスは自分の批判対象を絞り込むために、非常に注意を払っている。

例えば、抑圧された記憶は神話だという懐疑的主張に対し、フェミニストからは、あなたの研究はじっさいに性的虐待をうけて苦しんだ女性が親を告発するのをためらわせている、といった非難をロフタスは受けた。しかし、ロスタスは、子供に対する性的虐待が実際に起きていることは否定していない。重要なのはエピソード記憶についての科学者としての見解であり、その立場からすれば抑圧された記憶という観念には実証的な裏付けがほとんどない、というのがポイントである。じゃあ、性的虐待をうけた人の苦しみはどうでもいいのか。そんなことはない。抑圧された記憶などというものは虐待の証拠にならないと言っているだけで、それ以外の証拠を提示しなければならない、と言っているのだ。そもそもフェミニストは、身に覚えもない虐待のことで告発される親の悲しみを考えたことがあるのだろうか。それでもなお、あなたは保守的な父権主義者だと非難されるならば、イデオロギーの対立には興味がない、記憶についての科学をやっているんだ、と答えればよかろう。

ロフタスはフロイトにも寛容だ。本書の後半では何回かフロイトへの言及があり、そこでは、カウンセラーたちがフロイト精神分析を曲解して単純化していると指摘している。これは意外かもしれない。抑圧された記憶に対する彼女の批判は、フロイトの心理学に対する批判にもなりそうに思える*1。しかし、ロフタスはフェミニストからフロイトみたいだと非難されたこともあるのだ。そういうわけで、ここにはちょっと複雑な関係がある。ロフタスが本気でフロイトに肩入れしている科学者だとは思わないが、それでも、抑圧された記憶の神話に関する限り、ロフタスはフロイトの肩をもっている。

まず、フロイトは幼児期のトラウマの記憶が抑圧される、という風には考えなかったらしい。フロイトによれば、抑圧されるのは感情的な内容である。例えば、義理の兄と結婚したかった女性が、姉は死ねばいいという恐ろしい欲求を抱いてしまい、それを抑圧し、それがヒステリーという形で跳ね返ってくる、とか。たしかに、このケースは、トラウマの記憶がすっぽり抜けてしまい、それがカウンセラーによって思い出される、という構図になっていない。ここには「抑圧」という語の曖昧さが潜んでいる。

また、催眠術をつかって患者が幼児期のことをしゃべったとしても、その報告は当てにならない空想だ、とフロイトは考えたらしい。たしかに、フロイトも初期の頃は、ロフタスが問題にしているようなインチキカウンセラーと同じような抑圧の理論を考えたことはあるらしい。その理論は「誘惑説」などと呼ばれている。でも彼は誘惑説を割とすぐに手離したんだよね。そのため、この転向はのちにフェミニストから批判されることになった、という話だ*2

というわけで、本書は安易な精神分析への戒めの書ではあるが、フロイト批判には使えない。フロイト心理学に対する防波堤を築くには、アイゼンクとかグリュンバウムの本を読む必要があるだろう。 

*1:例えば、デーゲン『フロイト先生のウソ』p.199

*2:森『トラウマの発見』などを参照。

anyの用法

"any" の用法について調べていたところ、こういうサイトに出くわした。

こういうサイトって、なんというか、英語の堪能な人が英語が苦手な人にむけて「私の直観は"any"を支配している文法規則はこのようだと伝えている、心して聞くがいい」と言っているように感じるんだよね(大げさ)。

批判的考察

たしかに、この人が言っていることは大筋で正しいのかもしれない。「大筋」というのは次の主張である。

限定詞「Any」の本来の意識は「名詞の内容の選択の自由」にあります 

"You can choose any present." における"any" の用法は「自由選択(free choice)」などと呼ばれる。この人の主張は、一言でいうと、anyの用法は基本的にすべて自由選択として理解できる、という風におさえることができるだろう。この主張は正しいかもしれない。まぁ、この人の説明では私は納得できなかったんだけど。

自由選択の用法では、"any" は全称量化を意味していると思われる。実際、上の例文は、"For all x, if x is a present, you can choose x." とパラフレーズできそうだ。

ここから先、雲行きが怪しくなる。

限定詞「Any」の持っている意識は「名詞に与える選択の自由」なのですが、その意識があるあるが故の苦手な文のタイプがあります。

その苦手なタイプとは「選択の余地がない時」です。 

例えば、 "*I met anybody."(私は誰かに会った)は非文であり、"I met somebody." と言うべきである。この人によると、その理由は

なぜなら「その人に会った」のに選択では意味が分からないからです!!

「誰かsomebody」を「その人」という指示表現に安易に置き換えているところに不満を感じるが、全称量化ではないのだから "sombody" にすべき、ということでとりあえず納得することはできる。

逆に言うと「Any」が力を発揮できる時は「選択の自由があるとき」なんですね。 

しかし、そうだとすると、なぜ"I did not meet anybody." という否定文だったらOKなのか?この人の説明はここで破綻しているように思われる。"I don't need any advice." を例にとって

「アドバイスはいらない」と選択の余地を否定していますし 

と言っているのだが、選択の余地がないなら "any" は使えないというのがこの人の説ではなかったのだろうか?この辺りで私は見切りをつけることにした*1

否定極性

中学英語で、someとの対比で教わるanyの用法は否定極性negative polarityなどと呼ばれる。notを伴うような環境で使われる、というニュアンスだ*2。この用法が自由選択とどういう関係にあるのかは言語学者の間で論争がある。anyは多義的なのかもしれないし、統一的な説明が可能なのかもしれない。

ただ、英語の文法書はこういう理論的な問題には関心が薄いので、単純に二つの用法がある、という風に書いていることが多いのではなかろうか*3。否定極性の方は「不定の数量を表」し、自由選択の方は「肯定文で使って、「どの/どんな~でも」の意味になる」とある*4。この説明だと、否定極性のanyは意味の上ではsomeと同じであり、否定文(や疑問文)で使われるか肯定文で使われるか、という違いがある、ということになる。"I met anybody" は非文で "I did not meet anybody" がOKである理由を、自由選択の用法にもとづいて説明する必要はない。

クワインの議論

論理学者のクワインは、anyは基本的に全称量化として理解できる、と述べている*5クワインは「自由選択」や「否定極性」という用語は使っていないが、ひょっとしたら彼は自由選択の用法こそがanyにとって基本的だと考えていたのかもしれない。

クワインはanyとeveryを比較して、anyは常に広いスコープを取るのに対し、everyは狭いスコープをとる、と述べる。例えば

I do not know any poem. 

これは、個々の詩を順に提示されたとして、わたしはその詩を知らないということを意味している。よって、∀x (x is a poem → ¬I know x) と記号化できる。他方、

I do not know every poem. 

こちらは、¬∀x(x is a poem → I know x) と記号化できる。

否定極性のanyは条件文に現れることもある。クワインはこちらも全称量化として理解できると述べる。

If any member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes → I'll be surprised.)

If every member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes) → I'll be surprised. 

反論

anyを全称量化として記号化できることは確かだが、存在量化を使って記号化できるということもまた真なのではないか。"I do not know any poem" に関しては

¬∃x (I know x & x is a poem) 

とも書ける。また、"If any member contributes, I'll be surprised." に関しては

 ∃x (x is a member & x contributes) → I'll be surprised.

とも書ける。このように考えると、everyとanyの違いはeveryとsomeの違いとうまく重なる。それゆえ、否定極性のanyはsomeと意味の上では同じだけど、何らかの特殊な理由で使い分けがなされてる、という可能性は十分に残されると思われる。

ちなみに、自由選択のanyはalmostで修飾することができるのに対して、否定極性のanyではそれは難しい、という指摘もある。

そんなわけで、私自身は、anyは自由選択と否定極性に関して多義的でいいんじゃないかな、という方向に傾いている。

*1:ところで、このサイトには、テクニカルな理由でもう一つ不満がある。右クリックを禁止しているので、この記事を書くときにはコピペすらできず、いちいち書き写す必要があって、非常に面倒だった。

*2:否定極性表現としては、ほかにも"ever"などがある。

*3:私の手元にある文法書だと、江川『英文法解説』改訂三版 p.109f

*4:ただし、「否定極性」とか「自由選択」という用語は使われていない。

*5:『ことばと対象』28節

チョムスキー雑感(2)

 以前読んだ本を久しぶりに読み返してみた。

生成文法

生成文法

 

私の場合、この本ではじめて生成文法を勉強したという事情もあって、この本には思い入れがある。といっても、正直なところ一度読んだだけではあまり理解できず、類書に当たってはじめて理解できた部分が多いのだが。今の段階でも、よくて7割ぐらいしか理解できてない気がする。

なので、amazonのレビューでは、初心者にも分り易いという意見がちらほら見られるが、それには同意しかねる。本書を入門書として使うには、かなり賢い読者を別とすれば、チューターが必要だと思う。そして、内容が割と高度であることに加えて、索引がきわめて貧弱であること、演習問題の少なさと解答がないこと*1、なども使いにくい要因になっている。

しかし、こうした弱点に目をつぶれば、本書は80年代にできあがった原理・パラメータによるアプローチのすぐれた解説を提供していると思う。敷居が少し高いものの、たしかに説明は丁寧であり、英語だけでなく日本語の例文もわりと豊富である。個人的には、ピンカーの『言語を生み出す本能』の4章を読んでから本書を読むのがいいと思う。

amazonのレビューにはかなり批判的なものもあるので、ちょっと考えてみた*2。一つ目の論点は

ジョンがメアリーから手紙を受け取った 

という例文に関して、「から」を後置詞Pとして扱い、「が」「を」を名詞の付属物として扱っている理由をめぐっている。著者が提示する理由は、「が」「を」は「は」と共起できないが、「から」は共起するから、というもの。対するレビュアーは、その主張は「が」「を」が「から」とは違う振舞いをするということしか示しておらず、「が」「を」をPとして扱わない理由にはなっていない。まぁ、そうだね。しかし、次のコメントには同意できない。

著者が書けない本当の答えは、生成文法は基本的に英語を対象とした体系であり、そして日本語と違い、英語の主語と目的語は語順で示され、Pでは示されないからというもの 

英語では格変化するのは人称代名詞くらいだが、格によって名詞の接辞が変化する言語もある。語幹と接辞をあわせて名詞とみなすのはそれほど変ではなく、日本語の「が」や「を」を接辞とみなせないことはないと思う。「が」「を」をPとして扱わないということは、これらを一切無視するということまで意味しない。

また、「が」や「を」を文から削ってもそれほど容認度が下がらないことも、文法格助詞「がのをに」を名詞の付属物として扱うことを正当化する。上の例文から「が」と「を」を削ってみる。

ジョン メアリーから 手紙 受け取った 

これは割といける。他方、「から」を削ると容認度はもっと下がる。

*ジョンが メアリー 手紙を受け取った 

 

二つ目の論点は主語助動詞倒置(Subject-Aux inversion)をめぐるもの。

『直接疑問文では、C(補文標識)のことろが空家であるから、助動詞がそこに移動することができる』


もう我慢できない。
なんで、助動詞が補文標識の位置に行くのが許容されるわけ? 

我慢しろよ(笑)。いちおう著者が提示している理由は、間接疑問文との比較に基づくもので、間接疑問文で倒置が起きないのはif, whetherがあるせいだとすれば、直接疑問文で倒置が生じるときには助動詞が補文標識の位置に移動していると考えるのがもっともらしい、といったところだろうか。もっとも、レビュアーはこの説明では納得しないだろうが。問題は、これが唯一の説明とは到底思えないから、だと思う。実際、1957年のSyntactic Structureでは、こんなことにはなっていなかったはず。変形規則[移動]を適用する前と後で構造が変わらないようにするための工夫をする内にこんなことになったんだと推測するが、生成文法の歴史をみないことには、こんな説明がなされるようになった正確な経緯は分からないんだろうなぁ(私もよく分からない)。p.49に載っている文献を調べるのが早道かもしれない。

*1:Yahooの知恵袋で、本書の演習問題の解答を求めている人がいた…。英語学のBinding Theoryについての質問です。 - Look at your... - Yahoo!知恵袋 ベストアンサーがひどすぎる…。

*2:Amazon CAPTCHA

蒼き狼と白き牝鹿IV

『チンギスハーン:蒼き狼と白き牝鹿IV』(光栄1998)という古いゲームをやり直している。子供の頃は、とにかく強い将軍を集めて都市を征服するのが楽しかったが、今は街道や港といったインフラを整備するのがとにかく楽しい。例えば、都市AからBへの街道がすでにあっても、より短い街道をわざわざ作っている。街道といえば、藤子F不二雄の傑作『T・Pぼん』にある「ローマの軍道」というエピソードを連想する。古代ローマの繁栄の基礎となったのは街道であるという結論になっているのだが、いま自分が『チンギスハーン』でやってることは、アッピア街道を作ったアッピウス将軍と同じ境地に達したということか…。

以前プレイしたときは攻略サイトをまったく観なかったのだが、攻略情報を仕入れてみるといっそう楽しめる部分もある。隊商を大量に送り出して敵国の都市を取り囲んでユニットを出せなくするとか、まったく気づかなかった攻略法だった。このゲームはかなり難易度低めのヌルゲーなので、そんなえげつないことをやってしまったら、ますます簡単になってしまうが。適度な難易度にするには、騎兵が弓を使うのを禁止するとか、投石器や大砲のユニットを禁止するとか、一定の制限を課す必要があるくらいだ。国王の王族の数も制限しがほうがいいかもしれない。医学の都になると妊娠確率が100%になるので、王族のユニットを量産できてしまう。まぁ、実在したモロッコ皇帝イスマイルのギネス記録を超えるのを目標にしてもいいかもしれないが。毎ターン4人くらい子供をもうけたとしても、800人を超えるには何年かかるんだろう…。

教養がついて楽しめるようになった部分もある。『チンギスハーン』には哲学者のトマスやオレーム、詩人のダンテ、科学者のベーコンやトゥーシーが「将軍」として登場する。こういった人文系の人々は戦闘向きではないので、子供の時にはまったく注目していなかった。ちなみに、イスラム学者の名前はちょっと一貫性がなかったりもする。アヴェロエスはラテン名の「アヴェロエス」ではなく「イブン・ルシュド」で登場するが、マイモンデスは「イブン・マイムーン」ではなく「マイモニデス」というラテン名で登場する。

なお、実在する人物だけでは将軍の数があまりにも少ないので、『チンギスハーン』に登場する人物の大半は架空の人物である。架空の人物の命名システムを詳しく解説しているサイトがあって驚いた*1

やはり古いゲームは年とってからやり直してみるものだね。

チョムスキー雑感

チョムスキーは毀誉褒貶の激しい人で、言語学者の中にも彼を毛嫌いする人は多い。それにしても、チョムスキーを嫌っている言語学者が、チョムスキーについての入門書を書いていたりするのは理解しがたい。例えば、田中克彦チョムスキー』とか町田健チョムスキー入門』など。これらはネットで調べた限りすこぶる評判が悪い。なぜ自分が嫌ってる対象・分野についての入門書をわざわざ書くのか…。

構造主義者のチョムスキー批判は誤解に基づくことが多いのであまり参考にならない。たとえば、ソシュール研究者の丸山圭三郎が書いた新書『言葉と無意識』にこんな箇所がある(pp.153-155)。

表層、深層という用語を使うアメリカの言語学者N・チョムスキーが言葉の表層的研究にとどまる典型であることは皮肉な話である。彼にとっての深層とは、[…]観念の領域であり、これを表層に顕在化したのが物質ということになる。しかし、観念ほど表層的ロゴスの産物はないであろう。彼は意識の表層を物質と観念に二分して、後者を深層と考えるだけのホリゾンタルな思考からぬけ出してはいないのである。

[…]

したがって、チョムスキー生成文法は、生成とか深層と言っても、所詮は一切の分節に先立って存在するスタティックな精神的鋳型の仮説に過ぎない。そしてこの仮説こそ、チョムスキーが信奉するもう一人の哲学者・デカルトが受け継いだ西欧形而上学の伝統<主/客>の枠組であり、近くはドイツ観念論の主体=精神という図式であることが容易に見てとれよう。

何を言っているのかよく理解できないのだが、チョムスキーは「生成」とか「深層」という言葉を俺が興味深いと思う意味では使ってない、という程度の批判でしかないように思える。チョムスキーが意図している[と丸山が考えている]「深層」の用法は、チョムスキー自身が念頭に置いているであろう用法とは重ならないからだ。

後年のチョムスキーは「表層構造」と「深層構造」は彼の文法理論のテクニカルタームであって特に深遠な意味をもたないことを強調している。素人が書いた文章では「深層構造」を「普遍文法」に置き換えると意味が通ることが多いと言っている*1。この方針は実際、多くの場合うまくいく。私が気づいた例を挙げると、

「文の理解は根底にある基礎的な構造(深層構造)によってなされ、人間間の言語による相互理解も可能になるのである」(中村雄二郎『術語集II』p.102)

「チョムスキイによれば、人間の言語活動には無意識的で普遍的な深層構造が存在し、これから各言語に固有の返還規則を通過して、個別の言語現象が表層構造として表れる、と言う。この深層構造が人間に普遍的な「言語能力であり、これは、先験主義そのものである」(上野千鶴子構造主義の冒険』p.193)

などがある。ただまあ、チョムスキーは新しい用語を導入するのがあまり器用でない人、という印象はある。「深層構造」が典型的だが、他にも誤解を招きやすい用語があるんじゃないかと思う。ピンカーも、「主題役割thematic role」は主題とは大して関係ない、とか言っていたと思う。

*1:生成文法の企て』p.46

100分de名著「永遠平和のために」

この番組、興味のある本が取り上げられたときは視聴するようにしている。8月はカント「永遠平和のために」が取り上げられてるので、哲学の徒として一応観た。講師は気鋭の論客・萱野稔人氏。

この番組は25分×4回 = 100分という構成になっている。第1回目でさっそく、デリダはカントの「永遠平和のために」を典拠にして移民を歓待しようとか言ってるけどカントそんなこと言ってないから、と一蹴。フランス帰りの人がフランス現代思想の大御所を叩いているというのがポイント高い。1145141919点をあげよう。まぁ、このデリダ批判がどのくらいフェアなのかは知らないけど。

twitterを見たところ、分かりやすかったという好意的な声が多そうだ。しかし、個人的にしっくりこなかった箇所がとりあえず二点あった。

嘘をついてはいけない

定言命法は「カテゴリカル」というからには無条件に、どんな場面であってもそれは守らなければならない。「嘘をついてはいけない」も無条件に守られねばならないので、例えば、夫からのDVに耐えかねて家を飛び出した女性をかくまったら、しばらくして夫が尋ねてきて妻の居場所を聞かれたら、正直に答えないといけない。善意によって嘘をついてもよさそうだが、それは駄目なのだ、と。少なくとも第1回で萱野氏はそう言っていたと思う。

しかし4回目で再びこの話題に戻ってきたところでは、道徳とは無条件に従われるべきもの、という形式的な特徴づけから出発するのがカント哲学であり、内容から出発するのではない。形式から出発するなら、必ずしも「嘘をついてはいけない」という道徳規則が出てくるわけではない、と言われていた。うーん、すると結局「嘘をついてはいけない」は普遍化可能ではなく、そんな道徳規則はないと萱野氏じしんは考えているんだろうか。あるいは、カント解釈としてそれでいいと考えているんだろうか。

この話題について私はあまり考えたことがないのだが、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』では、もう少し凝った議論がなされていたと思う。サンデルは「嘘をついてはいけない」は例外なく守らねばならない規則として認めた上で、DVのようなケースに直面しても抜け道を探すような方法を提案する。すなわち、真っ赤な嘘をつくことと*1、相手を誤解させるようなことを言うことを明確に区別し、前者は道徳的に許されないが後者は許される、とする。戸をたたいてきた夫に対しては「一時間前にスーパーで見かけました」と言うとか、話題をうまく擦り替えて切り抜けるのだ。このとき、自分が信じていないことを主張するという意味での嘘はついていない。自分が信じていることを言っているが、相手が勝手にミスリードされるだけ。まぁ、サンデルはクリントンの例(セックスはしていない、オーラルセックスは定義上セックスではないから)とかも引いて、ミスリードさせるのも道徳的に微妙かもね、という余地を残しているけど。

パイを公平に分ける

第4回では、強欲な悪魔たちであっても争いごとを起こさずにケーキを切り分けることができる、という話がなされた。ケーキを切る悪魔がみんなの前でケーキを等分し、自分は一番最後にケーキを取る、というルールを設ければ公平に分けられる、そしてこういう形式的なルールは外から押し付けられなくても、全員が自発的に同意できはずだ、と言われる。

この話はどうも納得できなかったが、少し考えてみて、ここでいう悪魔には幾何学的な意味でケーキの体積を等分にできる能力があるという仮定をおけば、その方法でも公平に分けられるのか、と思った。そんな能力をもたない人間の場合、例えば、三人のうち一人が三等分して一番最後に取る、というルールを設けても、じゃあ残った二人のどちらが先にケーキをとるのかが問題になってしまうと思われる。完璧に等分できる悪魔だからこそ、残りの悪魔たちも文句をいわず同じ大きさのケーキをひとつ取ることができる。もしこの理解でいいのだとすれば、悪魔という設定は強欲さを強調するためではなく、人間にはおよそ不可能な切り分け能力を帰属するためのものではないか、と考えてしまう。でも萱野先生たぶんそんなこと考えてないよね。

関連記事

*1:「ガイア幻想記」でカレンが兵士に嘘をつくときに、フォントが真っ赤になるという演出があったのをまねてみた。