Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

人口増加

人類はなぜ農業を始めたのか、という有名な問題がある。素朴に考えると、これは愚問だ。農業は偉大な発明である。農業を始めれば不安定な栄養状態が解消されるだろうし定住することで子育ての負担も減るし、良いことづくめではないか。農業をわざわざ始めた理由を問うのは愚かであり、農耕の可能性に思い至ったから始めたに決まっているのではないか。

しかし、これには重要な反論がある。農耕社会では摂取カロリーの大部分が穀物に偏るためには狩猟採集生活よりも栄養状態が悪くなり、定住によって人口密度があがって疫病に苦しみやすいなど、難点もある。だから、少なくとも「良いことづくめ」ではない。ただし、子育ての負担が減るという利点は残る。そのため、女性の出産周期が短くなり(収穫の総量の増加もあいまって)人口増加が生じたらしい。ここで興味深いのは、いったん人口が増えてしまうと、もはや狩猟採集生活には逆戻りできないということである。単位労働当たりの生産性は狩猟採集の方がよい、つまりラクチンかもしれないが、農業によって増えた人口を狩猟採集で支えることはもはやできない。そう考えると、気候変動(寒冷化とか?)により狩猟採集では食っていけなくなったため仕方なく農業をはじめたものの、今度は農業なしでは生きられなくなった、といったシナリオが想像できる。この異論は細部では修正の余地があるものの、大筋では正しいと思われる。

最近知ったのだが、どうも同じような対比が農業システムの技術改良に関しても成り立つらしい*1。農業と一口にいっても焼畑のような休耕期間の長いものから、多毛作のように短いものまで色々ある。焼畑農業は単位労働当たりの生産性が高くラクチンなのだが、地力が回復するのに10年以上、20年から25年くらい待たないと持続できない。なので、人口が少ない社会では焼畑は有効だが、多くの人口を支えようとすると集約的な農業システムに移行しないといけない。灌漑をしたり家畜の世話をしたり、手間が増えていく。「なんでそんないばらの道を選ぶんですかねぇ…(正論)」といえば、例えば、温暖な気候のもとで収穫量が増えた時期がある程度続いてから、一気に寒冷化したりすれば、いったん増えてしまった人口を支えるには人々の生活水準を落とすか、技術革新をおこすしかない。後者の道は、収穫を上げる代償として、キツい労働が待っている…。

人口増加を否定的にとらえる、このマルサス的な歴史観はたしかに乱暴に聞こえる。人口増加にもそれなりの利点(インフラを維持できるとか、技術革新を起こしやすいとか)があるだろう。しかし、個人的には、この議論はやはり大筋で正しいのではないか、という印象を持っている。ひょっとすると、私はこの議論のシンプルさに惹かれているのかもしれない。比較のため、例えば、次のような文章をみてみよう。

我々が、王を中心とする「再分配機構」の成立について、過度に複雑な説明を与えようとしている、と覆われるかもしれない。しかし、これらのことは、しばしば思われているよりも、はるかに説明が難しいのである。

たとえば、王から奪われることの受容(税を取られることの容認)は、王によって保護されることの体かである、などと説明される。だが、もしそうだとすれば、なぜ、人は王によって保護され、王の支配下に入らなくてはならないのか?

このことは、たとえば、「灌漑を伴う集約的な農業」を実現するのに必要な大規模な共同のために、王の支配に参加する必要があったのだ、などという説明がなされてきた。しかし、ドーヴ(Dove [1985])は*2、ジャワの諸国家を例にとった歴史的・生態学的な研究によって、焼畑ないし粗放的農業」が「灌漑をもつ集約的農業」よりも生産性が低いというのは、全くの誤りであることを示した。確かに単位面積あたりの生産性に関しては後者は優れるが、逆に単位労働あたりの生産性について言えば、前者の方が優れている。つまり、従属者は、農業の生産性について言えば、王の支配の下に参加することで、いささかも利益をうけていないのである*3。 

大澤が提唱する「複雑な説明」とやらは成り立つはずがない、とまでは言わない。しかし、赤字部分の論証には flaw があるのではないか。「つまり」より前の観察からそれ以後の結論を導くことができるとは思えない。単位労働当たりの生産性が落ち込んでいるにもかかわらずそれを手放せない理由は、上で紹介したような理路でもっとシンプルに説明できるんじゃないだろうか。大澤は対抗仮説relevant alternativeを棄却するのに失敗していると思う。

関連記事

*1:リヴィ=バッチ『人口の世界史』

*2:「ダブ」の方が適切な気もする。

*3:大澤真幸『行為の代数学』p.330n7

コスパ

千葉雅也の次のツイートは色々考えさせられる。

ギャンブルってぜんぜん興味ないんだよ。だって損する可能性があるんでしょ。端的に言って、絶対に損したくないもん。ところで、ヘーゲルの翻訳をしっかり読み込むというのは、どうやっても絶対に損しない行為だね。だからヘーゲル読む方がいい。https://twitter.com/masayachiba/status/779503687215353856 

思うに、「しっかり読み込む」というのがポイントであり、中途半端にヘーゲル著作に手を出して意味が分からないと投げだして結局何も身につかない、という可能性は考慮に入れられていない。(理解できるまで)読み込むという行為は、定義によって損をしない行為なのだろう。

たしかに、これは意地悪な難癖であって、中途半端なところで投げだしたら何も得るところはないというのは何事にも当てはまる。しかし、多くの人にとってヘーゲルは超難解なのであり、「しっかり読み込む」という行為が成立するために投入しなければならない労力は相当なものだと予想される。それだけの労力を投入できる人はごく少数にとどまる以上、千葉のアドバイスは一般向けに受け取られるべきではないと思う。ちなみに、私だったらフレーゲを推奨しますかね。

常識的に考えて、分析哲学はフランス現代思想とかと比べて、コスパとか元をとるまでに必要な労力とか圧倒的にハードルが低いだろうと思う。これは私が分析哲学にシンパシーあるからというだけでなくて、哲学史に造詣の深い人ならみな思ってることなんじゃないか、と。例えば、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』には、ラカンの情報概念を理解するためにはどのくらいのバックグラウンドが必要なのかを説明してる箇所とかあるけど*1哲学史の素養のない人間からすると絶望的な気分になるよね。

関連記事

チョムスキー雑感(3)

半年くらい前に、山形浩生が訳したThe Economist誌のチョムスキーに関する記事を読んだ。

極小プログラムとか全然知らない門外漢だけど、この紹介[特に前半]はやっぱりアンフェアではなかろうか。まるで、我々の言語能力の中核をなすのは併合の操作だけであるかのように書かれていて、移動の操作には触れられていない。人工言語と違って自然言語には移動という現象があるという点で特異であり、なんでそんなことになっているのかを説明したくてたまらない、というのが生成文法の理論家のguiding ideaなのではないか、と素人の私は勝手に思っている*1

あと、この記事でリンクが貼ってある『生成文法の企て』に対する書評と、それに対するfinalventという人の批判記事にも軽く目を通した。批判記事というのは以下。

かなり辛辣な文体だと思うのだが、批判された山形氏の方は、何が悪かったのか全然分からない、というようなことを書いている。つまり、話がかみ合っていないわけだ。

最初に、山形氏が「言語器官」という表現を使ったことに対し、チョムスキーは「心的器官」と言うことはあるが、「言語器官」と言うことはあっただろうか、とある。個人的には、これはつまらない揚げ足取りだと思う*2。とはいえ

人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。 

という文章がいかにも「分かってなさそう」であることは否定できない。一番マズそうなのは「変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)」という表現だろうか。でも、「変形」と言ってるからといって、D構造がなんたらとか書いているのは、悪意を感じる。山形氏がここでどういうアイデアを紹介しようとしているのかは、チャリティを働かせれば理解できるのではなかろうか。たぶん、原理・パラメータのアプローチの話を紹介したいんでしょ[違うかもしれないけど]。原理の知識をもった初期状態があって、言語的刺激がトリガーとなって、最終的に特定の自然言語の文法の知識をもった状態になる。言語的刺激から帰納的に自然言語の文法規則を推論するのではなくて、言語的刺激はパラメータの値をバシバシ決めていくようなものだ、とか。マーク・ベイカーの本とか読むと、そんな感じのアイデアがもっと丁寧に紹介されてる。

*1:渡辺明ミニマリストプログラム序説』の最初の方を眺めたことで得た印象。

*2:ちなみに、少し調べたところ、New Horizons (2000), p.4 には "language organ" とある

偽記憶(2)

一時期の大澤真幸は、偽記憶症候群に関心を持っていたらしい。たとえば『現実の向こう』(2005年)の2.5節、『美はなぜ乱調にあるのか』(2005年)所収の「Ghost in the Patlabor」、『不可能性の時代』(2008年)5章あたり。

大澤は多重人格から話をはじめる。多重人格の患者は、カウンセリングの中で幼児期の性的虐待の記憶をとりもどすことがあり、それでカウンセラーたちは性的虐待が多重人格の原因だ、という説に飛びついた。でもそれは偽記憶でした、と。そのため虐待の疑いで告発された親が、逆にカウンセラーを告発するケースも出てきている。

大澤はまず、幼児期の虐待が多重人格の原因、という説はフロイトの複雑なヒステリーの理論と比べて過剰に単純でありお話にならない、とする。ここまでは先日紹介したロフタスとよく似ている。だが、大澤はロフタスのようにカウンセラーが偽記憶を植え付けたという風には解釈しない。むしろ、偽記憶症候群ではいわば二重の隠蔽があると言う。患者は心理的に認められない内容Xをまず隠蔽し、Xよりは比較的マシである内容Yによってさらに塗り固めている。そうすると、カウンセリングによって引き出されるのはせいぜいYまでであって、Xには到達できない。ここでいうYが幼児期の性的虐待に相当する。幼児期の性的虐待は悲惨だが、それと比べればまだマシであるような内容Xが隠れているはずだ、という風に大澤は議論を進める…。

しかし、有力な対抗仮説であるはずのロフタスらの懐疑論に触れることもせずに、こういう思弁にふけることにどんな意味があるのか。Xの記憶を隠蔽してそれをYで更に塗り固めるみたいなことを簡単に言うが、そういう心理的カニズムがあるという経験的証拠はどこにあるのだろうか。YはXに比べればまだマシというが、ロフタスの本とかを読む限り、カウンセリングによって患者は更に調子が悪くなってる。そうなると、一体何のための防衛反応なのか分からない。そして、Xに入るべき内容が例によって抽象的すぎる。第三者の審級の崩壊っていったい何だよ*1

*1:大澤は湾岸戦争症候群についても偽記憶症候群との関連で触れている。湾岸戦争症候群の原因が何なのかはたしかにはっきりしていないが、しかし、化学兵器処理の際に有毒物質に汚染されたという見方が有力である。矢幡『怪しいPTSD』p.205f

偽記憶

記憶研究で有名なロフタスの著書を読んでみた。

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

 

ありもしない性的虐待の記憶をカウンセラーに植え付けられた女性が親を訴える、というケースが一時期アメリカで多発した。本書はそうしたケースを数多く紹介し、インチキカウンセラーの所業を科学的心理学の立場から批判したもの。ノンフィクションのドキュメンタリーといったスタイルの本で、やや分厚いがとても読みやすい。人間の心理に関心あるすべての人に薦めたい良書だ。

抑圧された記憶をめぐる論争がアメリカであった、という話はおおよそ知っていたのだが、虐待の記憶をとりもどしたとして親を訴えて家族が崩壊した(or 崩壊に瀕した)数々の事例に関する本書の叙述は生々しく、読んでいて本当に痛ましい。眼に入れても痛くないほど可愛がって育てた娘から、いきなり全く身に覚えのない性的虐待を告発される、娘は真剣だから嘘をついているとも思えない、気付いていないだけで本当の自分は悪魔みたいな人間だったのか、それとも娘はあくどいカウンセラーに騙されているのか、だとしたらどうやってそれを証明したらいいのか…。

問題は「抑圧された記憶」という観念にある。告発者たちは、記憶はビデオテープのようなものであり、一度体験した出来事は脳のなかのテープに書きこまれる、しかし、出来事がトラウマ的な場合には、防衛機制によってそのテープを再生できなくなる、といったことを考えている。これに対し、バートレット以来の記憶研究は、エピソード記憶はビデオテープのようなものではなく、思い出すたびにシナリオが再構成されるのだ、といった立場をとる。体験した出来事の内容は、脳の中に断片的に書きこまれるが、一連の流れとして思い出すときには、断片からの再構成が入る。そこには改ざんの余地が大いにある。

本書の7章では、有名な「ショッピングモールの迷子実験」が紹介されている。実験の背景にあるのは、性的虐待の訴訟が多発しているという社会問題である。記憶の植え付けという一見無謀な所業が可能であることを実験的に示したい。だが、植え付ける記憶はトラウマ的でないといけない。そうでなければ、虐待の記憶をとりもどしたケースとの関連が薄くなってしまう。とはいえ、あまりに深刻な記憶を植え付けるようなことをすれば、研究の倫理上許されなくなってしまう。試行錯誤のすえに思いついたのが、ショッピングモールで迷子になった記憶を植え付ける、という実験。これはマイルドなトラウマ的出来事だろう、というわけだ。

本書は論争の書ではあるが、翻訳の文体もあってか、まったく攻撃的な雰囲気を感じさせない。ロフタスは自分の批判対象を絞り込むために、非常に注意を払っている。

例えば、抑圧された記憶は神話だという懐疑的主張に対し、フェミニストからは、あなたの研究はじっさいに性的虐待をうけて苦しんだ女性が親を告発するのをためらわせている、といった非難をロフタスは受けた。しかし、ロスタスは、子供に対する性的虐待が実際に起きていることは否定していない。重要なのはエピソード記憶についての科学者としての見解であり、その立場からすれば抑圧された記憶という観念には実証的な裏付けがほとんどない、というのがポイントである。じゃあ、性的虐待をうけた人の苦しみはどうでもいいのか。そんなことはない。抑圧された記憶などというものは虐待の証拠にならないと言っているだけで、それ以外の証拠を提示しなければならない、と言っているのだ。そもそもフェミニストは、身に覚えもない虐待のことで告発される親の悲しみを考えたことがあるのだろうか。それでもなお、あなたは保守的な父権主義者だと非難されるならば、イデオロギーの対立には興味がない、記憶についての科学をやっているんだ、と答えればよかろう。

ロフタスはフロイトにも寛容だ。本書の後半では何回かフロイトへの言及があり、そこでは、カウンセラーたちがフロイト精神分析を曲解して単純化していると指摘している。これは意外かもしれない。抑圧された記憶に対する彼女の批判は、フロイトの心理学に対する批判にもなりそうに思える*1。しかし、ロフタスはフェミニストからフロイトみたいだと非難されたこともあるのだ。そういうわけで、ここにはちょっと複雑な関係がある。ロフタスが本気でフロイトに肩入れしている科学者だとは思わないが、それでも、抑圧された記憶の神話に関する限り、ロフタスはフロイトの肩をもっている。

まず、フロイトは幼児期のトラウマの記憶が抑圧される、という風には考えなかったらしい。フロイトによれば、抑圧されるのは感情的な内容である。例えば、義理の兄と結婚したかった女性が、姉は死ねばいいという恐ろしい欲求を抱いてしまい、それを抑圧し、それがヒステリーという形で跳ね返ってくる、とか。たしかに、このケースは、トラウマの記憶がすっぽり抜けてしまい、それがカウンセラーによって思い出される、という構図になっていない。ここには「抑圧」という語の曖昧さが潜んでいる。

また、催眠術をつかって患者が幼児期のことをしゃべったとしても、その報告は当てにならない空想だ、とフロイトは考えたらしい。たしかに、フロイトも初期の頃は、ロフタスが問題にしているようなインチキカウンセラーと同じような抑圧の理論を考えたことはあるらしい。その理論は「誘惑説」などと呼ばれている。でも彼は誘惑説を割とすぐに手離したんだよね。そのため、この転向はのちにフェミニストから批判されることになった、という話だ*2

というわけで、本書は安易な精神分析への戒めの書ではあるが、フロイト批判には使えない。フロイト心理学に対する防波堤を築くには、アイゼンクとかグリュンバウムの本を読む必要があるだろう。 

*1:例えば、デーゲン『フロイト先生のウソ』p.199

*2:森『トラウマの発見』などを参照。

anyの用法

"any" の用法について調べていたところ、こういうサイトに出くわした。

こういうサイトって、なんというか、英語の堪能な人が英語が苦手な人にむけて「私の直観は"any"を支配している文法規則はこのようだと伝えている、心して聞くがいい」と言っているように感じるんだよね(大げさ)。

批判的考察

たしかに、この人が言っていることは大筋で正しいのかもしれない。「大筋」というのは次の主張である。

限定詞「Any」の本来の意識は「名詞の内容の選択の自由」にあります 

"You can choose any present." における"any" の用法は「自由選択(free choice)」などと呼ばれる。この人の主張は、一言でいうと、anyの用法は基本的にすべて自由選択として理解できる、という風におさえることができるだろう。この主張は正しいかもしれない。まぁ、この人の説明では私は納得できなかったんだけど。

自由選択の用法では、"any" は全称量化を意味していると思われる。実際、上の例文は、"For all x, if x is a present, you can choose x." とパラフレーズできそうだ。

ここから先、雲行きが怪しくなる。

限定詞「Any」の持っている意識は「名詞に与える選択の自由」なのですが、その意識があるあるが故の苦手な文のタイプがあります。

その苦手なタイプとは「選択の余地がない時」です。 

例えば、 "*I met anybody."(私は誰かに会った)は非文であり、"I met somebody." と言うべきである。この人によると、その理由は

なぜなら「その人に会った」のに選択では意味が分からないからです!!

「誰かsomebody」を「その人」という指示表現に安易に置き換えているところに不満を感じるが、全称量化ではないのだから "sombody" にすべき、ということでとりあえず納得することはできる。

逆に言うと「Any」が力を発揮できる時は「選択の自由があるとき」なんですね。 

しかし、そうだとすると、なぜ"I did not meet anybody." という否定文だったらOKなのか?この人の説明はここで破綻しているように思われる。"I don't need any advice." を例にとって

「アドバイスはいらない」と選択の余地を否定していますし 

と言っているのだが、選択の余地がないなら "any" は使えないというのがこの人の説ではなかったのだろうか?この辺りで私は見切りをつけることにした*1

否定極性

中学英語で、someとの対比で教わるanyの用法は否定極性negative polarityなどと呼ばれる。notを伴うような環境で使われる、というニュアンスだ*2。この用法が自由選択とどういう関係にあるのかは言語学者の間で論争がある。anyは多義的なのかもしれないし、統一的な説明が可能なのかもしれない。

ただ、英語の文法書はこういう理論的な問題には関心が薄いので、単純に二つの用法がある、という風に書いていることが多いのではなかろうか*3。否定極性の方は「不定の数量を表」し、自由選択の方は「肯定文で使って、「どの/どんな~でも」の意味になる」とある*4。この説明だと、否定極性のanyは意味の上ではsomeと同じであり、否定文(や疑問文)で使われるか肯定文で使われるか、という違いがある、ということになる。"I met anybody" は非文で "I did not meet anybody" がOKである理由を、自由選択の用法にもとづいて説明する必要はない。

クワインの議論

論理学者のクワインは、anyは基本的に全称量化として理解できる、と述べている*5クワインは「自由選択」や「否定極性」という用語は使っていないが、ひょっとしたら彼は自由選択の用法こそがanyにとって基本的だと考えていたのかもしれない。

クワインはanyとeveryを比較して、anyは常に広いスコープを取るのに対し、everyは狭いスコープをとる、と述べる。例えば

I do not know any poem. 

これは、個々の詩を順に提示されたとして、わたしはその詩を知らないということを意味している。よって、∀x (x is a poem → ¬I know x) と記号化できる。他方、

I do not know every poem. 

こちらは、¬∀x(x is a poem → I know x) と記号化できる。

否定極性のanyは条件文に現れることもある。クワインはこちらも全称量化として理解できると述べる。

If any member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes → I'll be surprised.)

If every member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes) → I'll be surprised. 

反論

anyを全称量化として記号化できることは確かだが、存在量化を使って記号化できるということもまた真なのではないか。"I do not know any poem" に関しては

¬∃x (I know x & x is a poem) 

とも書ける。また、"If any member contributes, I'll be surprised." に関しては

 ∃x (x is a member & x contributes) → I'll be surprised.

とも書ける。このように考えると、everyとanyの違いはeveryとsomeの違いとうまく重なる。それゆえ、否定極性のanyはsomeと意味の上では同じだけど、何らかの特殊な理由で使い分けがなされてる、という可能性は十分に残されると思われる。

ちなみに、自由選択のanyはalmostで修飾することができるのに対して、否定極性のanyではそれは難しい、という指摘もある。

そんなわけで、私自身は、anyは自由選択と否定極性に関して多義的でいいんじゃないかな、という方向に傾いている。

*1:ところで、このサイトには、テクニカルな理由でもう一つ不満がある。右クリックを禁止しているので、この記事を書くときにはコピペすらできず、いちいち書き写す必要があって、非常に面倒だった。

*2:否定極性表現としては、ほかにも"ever"などがある。

*3:私の手元にある文法書だと、江川『英文法解説』改訂三版 p.109f

*4:ただし、「否定極性」とか「自由選択」という用語は使われていない。

*5:『ことばと対象』28節

チョムスキー雑感(2)

 以前読んだ本を久しぶりに読み返してみた。

生成文法

生成文法

 

私の場合、この本ではじめて生成文法を勉強したという事情もあって、この本には思い入れがある。といっても、正直なところ一度読んだだけではあまり理解できず、類書に当たってはじめて理解できた部分が多いのだが。今の段階でも、よくて7割ぐらいしか理解できてない気がする。

なので、amazonのレビューでは、初心者にも分り易いという意見がちらほら見られるが、それには同意しかねる。本書を入門書として使うには、かなり賢い読者を別とすれば、チューターが必要だと思う。そして、内容が割と高度であることに加えて、索引がきわめて貧弱であること、演習問題の少なさと解答がないこと*1、なども使いにくい要因になっている。

しかし、こうした弱点に目をつぶれば、本書は80年代にできあがった原理・パラメータによるアプローチのすぐれた解説を提供していると思う。敷居が少し高いものの、たしかに説明は丁寧であり、英語だけでなく日本語の例文もわりと豊富である。個人的には、ピンカーの『言語を生み出す本能』の4章を読んでから本書を読むのがいいと思う。

amazonのレビューにはかなり批判的なものもあるので、ちょっと考えてみた*2。一つ目の論点は

ジョンがメアリーから手紙を受け取った 

という例文に関して、「から」を後置詞Pとして扱い、「が」「を」を名詞の付属物として扱っている理由をめぐっている。著者が提示する理由は、「が」「を」は「は」と共起できないが、「から」は共起するから、というもの。対するレビュアーは、その主張は「が」「を」が「から」とは違う振舞いをするということしか示しておらず、「が」「を」をPとして扱わない理由にはなっていない。まぁ、そうだね。しかし、次のコメントには同意できない。

著者が書けない本当の答えは、生成文法は基本的に英語を対象とした体系であり、そして日本語と違い、英語の主語と目的語は語順で示され、Pでは示されないからというもの 

英語では格変化するのは人称代名詞くらいだが、格によって名詞の接辞が変化する言語もある。語幹と接辞をあわせて名詞とみなすのはそれほど変ではなく、日本語の「が」や「を」を接辞とみなせないことはないと思う。「が」「を」をPとして扱わないということは、これらを一切無視するということまで意味しない。

また、「が」や「を」を文から削ってもそれほど容認度が下がらないことも、文法格助詞「がのをに」を名詞の付属物として扱うことを正当化する。上の例文から「が」と「を」を削ってみる。

ジョン メアリーから 手紙 受け取った 

これは割といける。他方、「から」を削ると容認度はもっと下がる。

*ジョンが メアリー 手紙を受け取った 

 

二つ目の論点は主語助動詞倒置(Subject-Aux inversion)をめぐるもの。

『直接疑問文では、C(補文標識)のことろが空家であるから、助動詞がそこに移動することができる』


もう我慢できない。
なんで、助動詞が補文標識の位置に行くのが許容されるわけ? 

我慢しろよ(笑)。いちおう著者が提示している理由は、間接疑問文との比較に基づくもので、間接疑問文で倒置が起きないのはif, whetherがあるせいだとすれば、直接疑問文で倒置が生じるときには助動詞が補文標識の位置に移動していると考えるのがもっともらしい、といったところだろうか。もっとも、レビュアーはこの説明では納得しないだろうが。問題は、これが唯一の説明とは到底思えないから、だと思う。実際、1957年のSyntactic Structureでは、こんなことにはなっていなかったはず。変形規則[移動]を適用する前と後で構造が変わらないようにするための工夫をする内にこんなことになったんだと推測するが、生成文法の歴史をみないことには、こんな説明がなされるようになった正確な経緯は分からないんだろうなぁ(私もよく分からない)。p.49に載っている文献を調べるのが早道かもしれない。

*1:Yahooの知恵袋で、本書の演習問題の解答を求めている人がいた…。英語学のBinding Theoryについての質問です。 - Look at your... - Yahoo!知恵袋 ベストアンサーがひどすぎる…。

*2:Amazon CAPTCHA