Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

anyの用法

"any" の用法について調べていたところ、こういうサイトに出くわした。

こういうサイトって、なんというか、英語の堪能な人が英語が苦手な人にむけて「私の直観は"any"を支配している文法規則はこのようだと伝えている、心して聞くがいい」と言っているように感じるんだよね(大げさ)。

批判的考察

たしかに、この人が言っていることは大筋で正しいのかもしれない。「大筋」というのは次の主張である。

限定詞「Any」の本来の意識は「名詞の内容の選択の自由」にあります 

"You can choose any present." における"any" の用法は「自由選択(free choice)」などと呼ばれる。この人の主張は、一言でいうと、anyの用法は基本的にすべて自由選択として理解できる、という風におさえることができるだろう。この主張は正しいかもしれない。まぁ、この人の説明では私は納得できなかったんだけど。

自由選択の用法では、"any" は全称量化を意味していると思われる。実際、上の例文は、"For all x, if x is a present, you can choose x." とパラフレーズできそうだ。

ここから先、雲行きが怪しくなる。

限定詞「Any」の持っている意識は「名詞に与える選択の自由」なのですが、その意識があるあるが故の苦手な文のタイプがあります。

その苦手なタイプとは「選択の余地がない時」です。 

例えば、 "*I met anybody."(私は誰かに会った)は非文であり、"I met somebody." と言うべきである。この人によると、その理由は

なぜなら「その人に会った」のに選択では意味が分からないからです!!

「誰かsomebody」を「その人」という指示表現に安易に置き換えているところに不満を感じるが、全称量化ではないのだから "sombody" にすべき、ということでとりあえず納得することはできる。

逆に言うと「Any」が力を発揮できる時は「選択の自由があるとき」なんですね。 

しかし、そうだとすると、なぜ"I did not meet anybody." という否定文だったらOKなのか?この人の説明はここで破綻しているように思われる。"I don't need any advice." を例にとって

「アドバイスはいらない」と選択の余地を否定していますし 

と言っているのだが、選択の余地がないなら "any" は使えないというのがこの人の説ではなかったのだろうか?この辺りで私は見切りをつけることにした*1

否定極性

中学英語で、someとの対比で教わるanyの用法は否定極性negative polarityなどと呼ばれる。notを伴うような環境で使われる、というニュアンスだ*2。この用法が自由選択とどういう関係にあるのかは言語学者の間で論争がある。anyは多義的なのかもしれないし、統一的な説明が可能なのかもしれない。

ただ、英語の文法書はこういう理論的な問題には関心が薄いので、単純に二つの用法がある、という風に書いていることが多いのではなかろうか*3。否定極性の方は「不定の数量を表」し、自由選択の方は「肯定文で使って、「どの/どんな~でも」の意味になる」とある*4。この説明だと、否定極性のanyは意味の上ではsomeと同じであり、否定文(や疑問文)で使われるか肯定文で使われるか、という違いがある、ということになる。"I met anybody" は非文で "I did not meet anybody" がOKである理由を、自由選択の用法にもとづいて説明する必要はない。

クワインの議論

論理学者のクワインは、anyは基本的に全称量化として理解できる、と述べている*5クワインは「自由選択」や「否定極性」という用語は使っていないが、ひょっとしたら彼は自由選択の用法こそがanyにとって基本的だと考えていたのかもしれない。

クワインはanyとeveryを比較して、anyは常に広いスコープを取るのに対し、everyは狭いスコープをとる、と述べる。例えば

I do not know any poem. 

これは、個々の詩を順に提示されたとして、わたしはその詩を知らないということを意味している。よって、∀x (x is a poem → ¬I know x) と記号化できる。他方、

I do not know every poem. 

こちらは、¬∀x(x is a poem → I know x) と記号化できる。

否定極性のanyは条件文に現れることもある。クワインはこちらも全称量化として理解できると述べる。

If any member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes → I'll be surprised.)

If every member contributes, I'll be surprised. ∀x(x is a member & x contributes) → I'll be surprised. 

反論

anyを全称量化として記号化できることは確かだが、存在量化を使って記号化できるということもまた真なのではないか。"I do not know any poem" に関しては

¬∃x (I know x & x is a poem) 

とも書ける。また、"If any member contributes, I'll be surprised." に関しては

 ∃x (x is a member & x contributes) → I'll be surprised.

とも書ける。このように考えると、everyとanyの違いはeveryとsomeの違いとうまく重なる。それゆえ、否定極性のanyはsomeと意味の上では同じだけど、何らかの特殊な理由で使い分けがなされてる、という可能性は十分に残されると思われる。

ちなみに、自由選択のanyはalmostで修飾することができるのに対して、否定極性のanyではそれは難しい、という指摘もある。

そんなわけで、私自身は、anyは自由選択と否定極性に関して多義的でいいんじゃないかな、という方向に傾いている。

*1:ところで、このサイトには、テクニカルな理由でもう一つ不満がある。右クリックを禁止しているので、この記事を書くときにはコピペすらできず、いちいち書き写す必要があって、非常に面倒だった。

*2:否定極性表現としては、ほかにも"ever"などがある。

*3:私の手元にある文法書だと、江川『英文法解説』改訂三版 p.109f

*4:ただし、「否定極性」とか「自由選択」という用語は使われていない。

*5:『ことばと対象』28節