Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

実証主義

お勉強メモ。

positiveという語*1

後期のシェリングは、これまでの哲学は消極哲学だが、自分の哲学は積極哲学positive Philosophieだと言った。このように積極的と訳す場合のpositivにはnegativが対義語となるが、事実に基づく・実定的という意味で使うときには対義語がない。

poseという動詞には「置く」という意味があるが、もともとこの動詞の主語は神だった。そのため、神が置いた=理屈では説明がつかない所与、といった意味があった。実際、例えば、ヘーゲルキリスト教の精神とその運命」は、事実として成立しているが理性によっては理解できない既成の制度や宗教的戒律のことをPositivitätと表現している。

いわゆる「実証主義」という場合にはそういう神学的由来は忘れられている。では、いわゆる実証主義とはどのような考え方なのか。

実証主義的な考え方のルーツ*2

実証主義とは、科学の対象は観察可能なものの法則的な関係に限定する、という立場である。観念論と実証主義は違う。観念論をとらずに実証主義をとることはできる。現代の論争でいう反実在論はそういう立場。

実証主義の出発点はダランベールダランベールは活力論争を終わらせた人物として知られる。この論争は現代からみると単なる言葉の使い方についての論争に見えるが、当時はもっと実質があった。

中世のインペトゥスのように、力というものは物体に込められている何かだ、という考えがまだ大陸の物理学者たちには残っていた。だから、その何かと対応するのは運動量なのかエネルギーなのか、という問いにも意味があった。そんな問題はどうでもいい、と言ったのがダランベール。ただし、重要なのはそう主張する理由だ。彼は実証主義的な立場から、運動する物体に内在する力という観念は目に見えないものについて語っているから、無意味で形而上学的だ、と考えた。

しかし、ダランベールにこうした見解を吹き込んだのは誰か。一つの答えはマルブランシュ!*3 彼は何事にも神様をもちだす機会原因論者だが、彼は物体と物体の因果関係を機会原因とみなすにあたって、通常の力とか因果のイメージを完全に否定するのだった。マルブランシュは実際に、目に見えるのは物体の動きだけで、物体の中に込められた力なんて見えないではないか、と言っている。

実証主義

ちなみに、法学にも実証主義と呼ばれる立場がある。この分野にはまったく明るくないのだが、法学の研究対象は人が定めた実定法だけに限るべきだと考え、自然法や社会契約説に批判的な立場らしい。

この立場を「実証主義」と呼ぶのはミスリーディング、あるいは誤訳だという意見もある。

実証主義とはlegal positivismの訳で、法は人が置く(pose)ものだとする立場ですから、本来「法の人定主義」と訳すべきものです。*4

ただ、wikipediaの記事は、実証主義を法学に応用した考え方だとか、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法のみを法学の対象と考える立場だ、といった紹介をしている。私はべつに「実証主義」と訳してもいいのではないかなという印象をもっている。

*1:木田元『わたしの哲学入門』p.271以下

*2:伊勢田『科学哲学の源流をたどる』4章

*3:あとがきによると、本書はデカルト研究者の故小林道夫に捧げられているのだが、一番読んでもらいたかったのはこの箇所なのだろう。

*4:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=224

二重否定除去則と排中律

直観主義論理は排中律と二重否定除去則が成り立たない論理として知られる。どちらか一方を付け加えると、他方も導出できて、古典論理になる。

それでは、排中律と二重否定除去則は同値といってよいのだろうか。もちろん、直観主義論理の上では同値なのだが、これはもうちょっと奥の深い問題のようだ。

例えば、最小論理の上ではどうなるか調べてみる*1。最小論理とは直観主義論理からEFQを取り除いた論理だが、最小論理に二重否定除去則を加えるとEFQを導出できるため、一挙に古典論理となる。他方、最小論理に排中律を加えても古典論理にはならない。したがって、図式的に書くと

となる。

このことは二重否定除去則の方が排中律より強力であることを示しているのだろうか。そうも言いきれないと思う。シークエント計算で考えてみよう。二重否定除去則はシークエントの右辺がマルチセットになることを認めれば導出できるので、二重否定除去則は右辺がマルチセットであることに相当すると言えよう。しかし、排中律の証明にはそれだけでは足りず、右の縮約規則を使う必要がある。

そういうわけで、私としては

  • 二重否定除去則+縮約規則=排中律+EFQ

あるいは、EFQが弱化規則に相当すると考えて

  • 二重否定除去則+縮約規則=排中律+弱化規則

という風に考えてみたい。

*1:cf. 前原『記号論理入門』

タブローとシークエント計算

タブローはシークエント計算の特殊例にすぎない、という話を昔聞いたことがある。一体どういうことだろう、と長いこと理解できないでいたのだが、最近になって、こういうことかな、と勝手に自己解決したのでちょっとメモしてみる。

古典論理のシークエント計算にも色々な流儀があるが、ここで考えたいのはG3cと呼ばれる証明体系である。

よくよく考えてみると、G3cの推論規則はタブローで枝を伸ばす規則と似ている。類似性に気づくためには、まず、シークエントに出現する式をすべて左側に寄せる必要がある。右辺から左辺に寄せるには、否定を付ければよい。任意の結合子〇について、A〇Bから枝を伸ばす規則は、〇の左規則を下から上に読むことに対応する。¬(A〇B)から枝を伸ばす規則は、〇の右規則を下から上に読むことに対応する。枝が閉じることは、シークエント計算の公理である同一律のシークエントに出現する式をすべて左辺に寄せたもの、つまり矛盾律に対応する。

二重否定文から枝を伸ばす規則に対応するのは…。うーん、古典論理だから二重否定除去は許される、ということでシークエントの右辺から左辺に動かすときに二重否定は取り払ってしまうことにしておこう…。

∀の左規則は結論だけでなく前提にも全称文が含まれるが、タブローでは全称文から枝を伸ばす場合には、この式にチェックを入れることは許されず、何度でも利用可能であることに対応しているのだろう。

対応関係はメタ的な性質にも及ぶ。タブローの証明は部分式性質subformula propertyを満たし、カットフリーのG3cも部分式性質を満たす。対応関係が崩れるとすれば、構造規則かな…。まぁでもG3は構造規則がadmissibleなので、なくても証明能力はまったく落ちないわけだ。

素人考えだが、この先も考えてみたくなる。例えば、様相論理Kのシークエント計算。これを上のようなやり方で左側だけのシークエント計算に翻訳すれば、prefixなしの様相論理タブローが得られそうだ。

様々な含意関係

哲学の文献では"entail"という用語がよく出てくる。意味合いとしては、AがBをentailするとは、Aならば必ずBといったところだろうか。それも、単なる必然性ではなく意味によって・概念的に必然的、といったニュアンスも含まれる。論理的帰結関係はentailの一種だろうけど、知識が信念を含意する、といったときにもentailと言う。

entailの定訳は何だろうか。「含意」とか「伴立」とか「随伴」といった訳語をしばしば見かける。「含意」が一番多そうだけど、implicationも含意と訳すので(実質含意material implicationなど)、この辺はちょっと厄介なところ。

implication以外にもentailと似た概念が言語哲学まわりでは沢山ある。ちょっと整理してみよう。さまざまな含意関係の違いを調べるときに、後件を否定した場合の効果を調べるのが有効だと言われる*1。entailの場合にはBを否定するとAも否定される(対偶)。前提(presupposition)の場合、Bが偽ならAは真理値をもたない*2。慣習的含み(conventional implicature)の場合は前件に関して言葉遣いを誤ったと見なされる。会話の含み(conversational implicature)の場合には、聞き手に誤解させるような話し方をしたとみなされる。

だいたいこの辺の違いを押さえておけば十分だろう。ちなみに、大澤真幸はこれら全てと異なるentailの用法を提示している。

AがBを「必然的に随伴するentail」とは、AがBを含意し、かつAの否定がBの否定を含意していること、である。むろん、このときAとBは、論理的には同値になる*3

しかし、寡聞にして、こういうentailの用法(論理的同値と同値であるような用法)は聞いたことがない。

関連記事

*1:イカンの『言語哲学』p.280

*2:ただし、これは意味論的前提の場合。

*3:大澤真幸『意味と他者性』p.125n1

グライスの「意味」

言語哲学者グライスの有名な論文「意味」は1957年に出版されたが、初稿が書かれたのはその10年ほど前だという*1。たしかに、邦訳の『論理と会話』に付けられた飯田先生の「グライス紹介」にも「発表は1957年であるが、もとの草稿は1948年に書かれたという」とある(p.358)。

邦訳の目次には出版年の情報が付けられていないが、原著の目次には章ごとに出版年が細かく記されている。それを見ると、Meaningは(1948, 1957)と記されている。飯田先生が「1948年」と書いた典拠はおそらくこれだろう。

wikipedia, "Paul Grice" には

See discussion of this history in Russell Dale, The Theory of Meaning, Chapter 1, endnote 31, p. 34.

とある。この著作はウェブ上で読めるようなので調べて見たところ、次のように書いてあった*2

Stephen Schiffer, Richard Grandy, and Richard Warner have all told me in personal correspondence that Grice originally wrote the paper for a seminar that he and Strawson were to give in 1948, but was reluctant to publish it. Strawson had the article typed out and submitted it for publication without Grice's knowledge. Strawson only told Grice after the article was accepted for publication. Stephen Schiffer has told me that Grice himself told him this story and Richard Warner has written to me that he also heard this story from Grice. The only person I have been able to find who has noted the 1948 date is Fogelin in his review of Studies in the Way of Words: "'Meaning'...was first published in 1957, and apparently given as a lecture almost ten years earlier in 1948" (Fogelin (1991)). But that "Meaning" was given as a lecture does not seem to be noted anywhere in Studies in the Way of Words and Fogelin doesn't mention a source for the information he provides.

 

*1:柏端『コミュニケーションの哲学入門』p.71n1

*2:The Theory of Meaning by Russell Dale; Chapter 1 Notes

モンテホール問題

『アド・アストラ』にモンテホール問題が出てきたので、久しぶりにこの問題について考え直してみて、ふと気づいたことがあった。メモとして記してみる。

モンテがドアを開けた後で選択肢を変更したほうが正答の確率が上がるというのはパラドキシカルだと感じてしまうのは、モンテが確実にハズレのドアを開けるという点をきちんと考慮できていないから、だと思われる。

比較のために、次のようなケースを考えよう。私が3番目のドアを選びつつ、まだドアは開けないでおく。次に、別の人(どのドアが当たりかは知らない)が2番目のドアを選び、ドアを開けたところハズレだったとする。このとき、私は3番目のドアから1番目のドアに選択を変えるべきだろうか。いや、そんなことはない。どちらが当たる確率も等しいからだ。

このことをもう少し形式的に示してみよう。Aiを「i番目のドアが当たりである」、Biを「モンテがi番目のドアを開ける」という命題とする。なお、私は3番目のドアを選んだと仮定する。このとき、確率の付値は次のようになる。

  • Pr(A1) = Pr(A2) = Pr(A3) = 1/3
  • Pr(B1 | A1) = Pr(B2 | A2) = 0
  • Pr(B1 | A2) = Pr(B2 | A1) = 1
  • Pr(B1 | A3) = Pr(B2 | A3) = 1/2

ポイントとなるのは、2行目と3行目の付値である。1番目のドアが当たりのとき、モンテは絶対に1番目のドアを開けないで、2番目のドアを開ける。この事実こそが、例えば、モンテが2番目のドアを開けたときに1番目のドアが当たりである確率、つまり、Pr(A1 | B2) を計算するときに効いてくる。ベイズの定理を使って計算すると 2/3 となる。

先ほど比較のために挙げたケースでの確率の付値はこれとはまったく異なる。Biを「別の人がi番目のドアを開ける」と解釈すると、2行目と3行目の値はどちらも1/2となるからだ。この場合、選択肢を変えねばならない理由はない。

完全なものから一部を取り除いたら不完全

「その、「二重否定除去則」を認めないと、古典論理で証明された定理の中で直観主義論理では証明できないものが出てくるんでしょう?」

「出てくるね、排中律とか、ド・モルガンの法則の一部とか」

「どうしてそんな不完全なものが許されるわけ?」

「いや、直観主義命題論理の完全性は証明できるらしいよ」

「だって、古典命題論理の完全性も証明されているんでしょ?」

「うん」

「それで、直観主義論理は古典論理の一部なんでしょう?」

「そうさ」

アリスはそこで勝ち誇ったように、言った。

「完全なものから一部を取り除いたら不完全になるのよ。知らなくって?」*1

この練習問題はよくできている。巻末の模範解答によれば

「完全」ということは意味論に相対的だからね。古典論理の意味論に従えは、もちろん直観主義の公理系LIPは不完全になる。だけど、直観主義直観主義の意味論を提出するわけだ。そして、その意味論のもとでは、公理系LIPも完全になることが示されているんだ。(逆に、直観主義の意味論からすれば、古典命題論理の公理系LPは論理的真理でないものまで含んだ不健全なものとなる)

ということは、例えば、「一階論理なら完全性を証明できるけど、二階論理では無理」といった言い方には注意しないといけない。二階論理(命題論理だろうと述語論理だろうと)について、標準的な意味論を採用した場合には不完全だが、非標準的な意味論(ヘンキンの意味論など)を採用すれば完全性がいえる。どの意味論と相対的に完全/不完全なのかについて自覚的でないといけない。

*1:野矢『論理学』p.184