「どのFもGである(Every F is G)」は、Fが空である場合にはGが何であれ真になるということを、「aはFである」という単称肯定文において単称名"a"が空である場合にまで拡張することが、一般向けの啓蒙書ではなされがちなのではないか、という疑念を前々から持っている。この拡張は不適切だろう。Fが空のとき「どのFもGである」はトリビアルに真だが、aが空のとき「aはFである」は真理値を欠くか、端的に偽である。特に、ラッセルの記述理論によれば、「現在のフランス王は禿げである」のように、空虚な確定記述が現れる場合、「aはFである」という文全体は偽になるはずだ。
幾つか例を挙げる。
妹が実際に存在しないとすれば、その妹については何を言っても正しい。妹がお前にほれていると言っても正しいし、お前を殺したがっているといっても正しい。…つまり、存在しないものについてはいかなる命題も成り立つ、というのが数学的論理の一つの特徴なのである*1。
別の例。
[…]「四角い円だからまるくない」と言っても、「四角い円だからまるい」と言っても、どちらもまちがいなのである。今日の形式論理学では、これらは空集合に言及するともに真なる命題とみなされるが[…] *2
「四角い円」はふつう "The square circle"という確定記述だと解釈される。これは空名である。よって、記述理論により「四角い円はまるい」は偽になる。つまり、石川が言うのとは違って、今日の形式論理学では「四角い円はまるい」は偽である。さらに言えば、記述理論のもとでは「四角い円」は空集合に言及しているわけではない。
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