Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

チャーチのラムダ計算

wikipediaの「ラムダ計算」によると

元々チャーチは、数学の基礎となり得るような完全な形式体系を構築しようとしていた。彼の体系がラッセルのパラドックスの類型に影響を受けやすい(例えば論理記号として含意 → を含むなら、λx.(x→α) にYコンビネータを適用してカリーのパラドックスを再現できる)ということが判明した際に、彼はそこからラムダ計算を分離し、計算可能性理論の研究のために用い始めた。

チャーチの元の体系は論理結合子を含んでいて、それゆえ矛盾した、というこの話はよく聞くが、今までまともに考えたことはなかった。おおよそ次のような具合だろうか。二つのステップに分けて述べる。 

1. 任意のラムダ項αについて、X = X→αとなるようなラムダ項Xが存在することを示す。

  • 任意のαについて、x→α、λx.(x→α)もラムダ項
  • 不動点定理によれば、任意のラムダ項Fについて、X = FX となるようなラムダ項Xが存在する*1。Fにλx.(x→α)を代入すると、X = FX =  λx.(x→α)X = X→α

2. 含意(ならば)の論理法則を用いて、X = X→αからαを導く。

  • 公理系λαに、ならばの導入則と除去則を付け加える。
  • Xを仮定。
  • Xを同値であるX→αと置き換える。
  • X→αとXからαを導く(ならばの除去則)
  • 仮定Xからαが導かれたので、X→α(ならばの導入則)
  • X→αを同値のXと置き換える。
  • X→αとXからαを導く(ならばの除去則)。すでに仮定はすべて落ちているので、αが証明できた。

歴史的な背景も含めた詳しい説明が以下にありそう(まだ読んでない)。

Paradoxes and Contemporary Logic (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

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*1:Yコンビネータを使って、X = YFと表現される。

子供の教育

ヤマザキマリテルマエ・ロマエ』2巻から。

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子供を勇敢さを身につけた戦士に育て上げるには、玩具を用いたりして楽しみながら行うのがよい。こうした教育観は、実は、プラトンの『法律』に原型が見られる…。そんな話を知人から聞いたことがある。最近、『法律』を手に取る機会があったので、ふと思い出して調べたら、次のような箇所が見つかった(643B-D)。 

わたしの主張によれば、なにごとにせよ、ひとつのことに優れた人物たらんとする者は、ほんの子どものころから、そのことにそれぞれふさわしいもの(玩具)をもって遊戯をしたり真面目なことをしたりして、その練習をつまねばならないのです。たとえば、すぐれた農夫とかすぐれた建築家になろうとする者は、後者なら玩具の家を建てるなり、前者なら土に親しむなりして、遊ばなくてはなりませんし、彼ら両者を育てる者は、本物を模倣した小さな道具を、それぞれに用意してやらなくてはなりません。その上さらに、前もって学んでおくべき教課を、あらかじめ学んでおかなくてはなりません。たとえば、大工なら測定測量のことを、兵士なら乗馬のことを、遊びなり遊びに順ずることなりを通じて、あらかじめ学んでおかねばならない。また養育者は、子どもの快楽や欲望を、そういう遊戯を通じ、彼らが大きくなればかかわりをもたねばならぬものへ、差し向けるようにつとめねばならない。したがって、教育とは、これを要するに、わたしたちに言わせれば、正しい養育なのです。その養育とは、子どもの遊びを通じてその魂を導き、彼が大人になったときに十分な腕前のものとならねばならぬ仕事、その仕事に卓越することに対し、とくに強い愛着をもつようにさせるものなのです。

たしかに、これは、アテネの競合相手であったスパルタ教育に対して向こうを張るような教育観なのだろう。

『法律』はソクラテスが登場しない対話篇である。この対話篇の主人公はアテナイからの客人。対話篇の大部分をこの人物の発話が占めていることから、彼がプラトンの代弁者だと考えられている。上に引用したのもアテナイからの客人のものであるから、おそらくプラトンもこのような教育観を抱いていたと思われる。

コルモゴロフ

ルイセンコ説は、権力が科学に介入するとどんな悲惨なことが起きるのかの例証として、科学史や科学哲学でよく用いられる。しかし、一体どういう理由で獲得形質の遺伝がソ連において正統な学説とみなされたのだろうか。

先日紹介したマット・リドレー『徳の起源』によると、この疑問は氏か育ちかという問題と関連している。レーニンやスターリンは筋金入りの環境決定論者だった。人間は教育・プロパガンダ・権力によって完全に新しい人間につくりかえることができる。スターリン政権下ではこの信念が小麦にまで適用されることとなり、結局ルイセンコ説が1964年まで支配的となった。この学説を証明しようとして数百万人が餓死した*1

そういうわけで、ソ連ではダーウィン主義が弾圧されたわけだが、他の学問分野、例えば、数学ですら弾圧を完全には免れなかったようだ。最近図書館で目を通したガッセン『完全なる証明』はポアンカレ予想を証明した数学者ペレルマンの謎にせまろうとしたノンフィクション作品なのだが、この本は序盤でソ連数学教育について一章を割いている(2章)。この章の主人公はコルモゴロフ。コルモゴロフというと、私は確率の公理系やBHK解釈などを連想するのだが、教育者としても大きな役割を果たしたようだ。実際、彼は、エリート教育など絶対に許されない中で制度の抜け穴をうまく見つけてレベルの高い学校をいくつか作った。ペレルマンも出身者であるそういう学校は、マルクス主義の洗脳から有能な若者を守ることにつながったのだとか。

コルモゴロフは比較的若くしてソ連の数学界でも地位を確立したので上手いこと自由に動き回ることができた。しかし、最終的には、数学の初等教育の改革に着手したことが西側世界で行われていた教育改革と似ていたこともあって反ソヴィエト的だとかいう批判をくらって失脚した。何ともやりきれない話だ。

この章でもう一つ興味深かったのは、ソ連の数学者と西側諸国の数学者はコミュニケーションをとる手段がなかったので、同時期に同じような問題に取り組んで同じ成果を挙げていたことが後になって判明した、という話。クック=レヴィンの定理やチャイティン=コルモゴロフ複雑性といった二人の名前を冠した名称には、そういう事情があったんですねぇ…。

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*1:リドレー『徳の起源』p.347

高齢者による交通事故

ここ数年、高齢者が運転する自動車による交通事故がニュースでよく取り上げられるようになった。これに関連して、まとめサイトなどで「老害」という言葉がよくつかわれるようにもなっている。あまりに興味はなかったのだが、頻繁に目にするので、少し考えてみた。

本当は若者の方がたくさん交通事故を引き起こしているのではないか、という指摘から出発するのがいいかもしれない。例えば、1年以上前の記事だが

この記事は結構反響を呼んだようで、色々なサイトで引用されて賛否両論の意見がだされてる。あまり批判的なことを言うつもりはないが、出されているグラフの多くが、単純に事故の件数を数え上げたものであるところは、さすがに気になる。若者の方が高齢者より免許をもっていて長い時間運転するだろうから、事故を起こす割合で比較しないとアンフェアだと思われる。

上の記事のいいところは、この種の反論も想定したうえで、10万人あたりの死亡事故件数のグラフも提示していることだと思う。一応自分でも検索して似たようなグラフを見つけたので貼っておく。 

の「(8)第1当事者別の交通死亡事故発生件数」は以下のようだ。

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 このグラフをうのみにするなら、とりあえず10代と80歳以上の人々がとくに危険運転をしているようだ*1。そうすると、たしかに上の記事でも言われてるように、事故を起こしたのが70歳前後の人を、定義上は「高齢者」だから大きく取り上げるというのは、統計上、あまり正当化できない。

それでは、80歳以上の高齢者の事故なら大きく取り上げていいのかというと、それなら10代も危険運転してるのだから同じくらい大きく取り上げるべきだ、という意見も出てきそうだ。判断能力の鈍った老人に轢き殺されるのは我慢ならない、という意見をまとめサイトで見かけたのだが、これは流石にあんまりだ。判断能力の鈍った老人に轢き殺されるのは理不尽だろうが、オラついた10代のガキに危険運転で轢き殺されるのも十分理不尽だと思う。

高齢者の事故をことさらに取り上げるのは免許を自主返納させたい政府のプロパガンダだという意見も聞く。そうなのかもしれない。一方で、クローズアップ現代のアンケート調査で、自分の運転テクニックなら事故を回避できると思うか、という質問に対して高齢者は「yes」と答える割合がかなり高い、というグラフも見かける。もしこの調査が正しいのなら、自己認識を改めてもらうべく、高齢者の交通事故を狙い撃ちするような報道のあり方もある程度正当化されるかもしれない。

あまり捗捗しい成果ではないが、素人が小一時間調べて分かったのはしょせんこの程度か…。

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小学校の集合論

集合が小学校の課程の中に導入されたとき、多くの親達はたいへんな反発を示したらしい。習ったことのない「集合」が入ってくると、親は子供の算数の面倒をみることができなくなるからである。しかし、このことは多くの場合、無駄な心配に終わった。というのも、「集合」がわからなくなって親に質問した子供は、ほとんどいなかったからである。*1 

小学校で集合とか習ったっけ、もう小学生の頃の記憶なんてないなぁと思っていたのだが、ググってみたら、こういうページを見つけた。

ここでの説明によると、昭和43年の教科書で集合論が採用されて、昭和55年には廃止されたらしい。つまり、私が小学生の頃には(というか、生まれる以前に)すでに集合は姿を消していたことになる。

しかし、なぜ集合なんてものを小学校から教えるようなことになったのか。事情はおおよそ次のようなものだと思われる。1970年代、西側諸国では新しい数学運動によって数学者が初等教育にも介入した。集合はあらゆる数学の基礎とされ、小学校から教えられるようになった*2。世界的な傾向だったのだね。

では、なぜ集合は姿を消したのか。結局、親の反発が強かったということなのだろうか。よくわからない。ちなみに、大澤は上の文章を次のように続けている。 

そんなに簡単ならば、ということで、親達の中には、子供の教科書を使って「集合」なるものを勉強してみようと思った者もいた。ところが、このような野心的な親達の多くは、子供にはあんなに簡単に理解できた「集合」を、ほとんど最初の一歩から全く理解できなかった。どうしてこんなことになったのだろうか?大人のかなりの部分が、これを理解することに挫折したのは、集合が難しかったからではなく、彼らが、そこに書かれていたことの「意義」や「有用性」やらにこだわってしまったからである。 

真相はいかに。

リドレー『徳の起源』

マット・リドレーの『徳の起源』を読んだ。以前、途中まで読んだのだが、難しくて止めてしまった覚えがある。今回はいちおう最後まで読みきったが、正直理解できなかったところも多い。ただ、中盤で誤訳をいくつか見つけたので、これが以前読むのを諦めた原因の一つかもしれない、とも思った。翻訳については後で触れるとして、まずは、この本のテーマを紹介する。

この本は、ロシアのアナーキスト思想家として知られるクロパトキンの物語からはじまる。イギリスに亡命したクロパトキンは、「自然は利己的な生物どうしの非情な闘争の舞台である」と言ったトマス・ハクスリーを批判して『相互扶助論』という本を書いた。協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もそうだとクロパトキンは考えていたからだ。生存競争から利他的行為が生まれるとは信じられなかった。こういう信条の背景には、帝政ロシアのもとで監獄に入れられた彼の個人的な経験がある。クロパトキンは友人たちの協力で脱獄できた。友人たちが助けてくれなかったら脱獄なんてできなかった、と。

さて、しかし、クロパトキンは協力がどうやって進化したのか、という問いに悪名高い群選択の理論で答えるしかなかった。協力する種はそうでない種よりも生き延びることができる、というわけである。この回答は満足のいくものではない。だが、もし生存競争が世界を支配するのならどうして協力が出現するのか、という問題設定はいまでも有効である…。

そんなわけで、この本は現代では正統派のダーウィン主義、つまりドーキンス利己的な遺伝子説を前提としたうえで、そこからどうして協力が生じるのかを、最近の研究成果を縦横に参照しながら説明しようとした本である*1。具体的には、繰り返し囚人のジレンマ、社会的交換モジュール、感情のコミットメント理論、情報のカスケード、比較優位、共有地の悲劇、といったキーワードで検索の網にかかる有名な研究が紹介されてる。

個人的には、アクセルロッドのしっぺ返し戦略に対する動物学者や経済学者の批判を紹介している4章が面白かった*2。自然界におけるしっぺ返し戦略の事例として、掃除魚やチスイコウモリがよく挙がるけど、これらは動物学者が必死に探してやっと見つかった事例に過ぎず、しっぺ返しはそれほど一般的な戦略ではないとか。経済学者からの批判は、ここで手短に述べるのが難しいが、内容的には以下で山形さんが説明してるような感じ[アクセルロッドのしっぺ返し戦略批判]。

内容の紹介については、とりあえず以上。なお、記事の最初でも言ったように、この翻訳には誤訳が結構あると思う。いくつか紹介しておく。

  • 「この考え方は生存競争と自然淘汰説の一段階を飛ばしたものにすぎない。つまり、個体ではなくグループ単位で考えている」→「この考え方は、生存競争と自然選択を個体から群へと一歩遠ざけているremove ... one step」p.17
  • 「草食動物に食べられることは少ない」→「草食動物が食べても死なないnot killed by grazing」p.148 
  • 「しかしそこでは…証拠はないと述べているだけだ」→「証拠は全くないと述べている」p.161
  • 「突如として裏切られる」→「突如として裏切った/逃亡したdefect」p.165
  • 「結果を左右するチャンスが与えられるとすれば、これは不合理」→「結果を左右する見込みを考えると、これは不合理」p.193
  • 「前章で提案したもう一つの解釈とは厳密には異なる」→前章で提案したのと異なる解釈というわけではないnot really an alternative interpretation p.193

リドレーの本は多くが文庫化されているが、本書はまだ文庫化されていないようだ。訳を修正してぜひ文庫化してほしい。原著はそうする価値のある本だと思う。

*1:利己的な遺伝子説については1章、ウィン=エドワーズの群選択理論は9章で手短に解説されている。

*2:tit for tatをこの翻訳は「お返し戦略」と訳してるけど、「しっぺ返し」のが定訳だと思う。

黄金比

18禁の映画『ニンフォマニアック』(2013年)で、フィボナッチ数とか黄金比とかピタゴラスの定理の話をする場面がある。スクリプトは以下。 

The [Fibonacci] sequence has an interesting connection to Pythagoras' theorem of the Golden Section. It was all about finding out a divine methodology in art and architecture.*1 

挿絵まで出てくる始末である。

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一文目の "Pythagoras' theorem of the Golden Section" というのがよく分からない。とりあえず、最初の図はいわゆるピタゴラスの定理ユークリッド『原論』I.47)と思われるが、これ自体は黄金分割golden sectionとはいちおう別の話だと思う。黄金分割ないし黄金比golden ratioを得るやり方は『原論』II.11に登場する。この命題の証明には、たしかにピタゴラスの定理が使われる。すなわち、三辺の長さの比が

  • 1 : 2 : √5

になる直角三角形を使って、τ = (1+√5)/2 という比を得るわけである。なお、黄金分割はピタゴラス教団にとって神聖な図形である正五角形の作図(『原論』IV.11)に利用されることを付記しておく。

さて、1 : τという比の黄金長方形から正方形を切り取ると、残った長方形はやはり黄金長方形となる。そこで、再び正方形を切り取ってさらに小さな黄金長方形を得る…という操作を無限に続けることができる。次々と縮小していく正方形に内接する四分円をつなげると、二番目の図にあるような対数螺旋ができあがる。対数螺旋は自然界のさまざまな場所で見出されることが知られている。例えば、オウム貝

この次々と縮小していく正方形のパターンはパルテノン神殿にもみられるというのが三番目の図である。もっとも、この当てはめはこじ付けだという意見が一般的である。測る場所を慎重に選べば、他の建築物にも同様のパターンが見いだせるだろう。それに、黄金比が流行するのは、パルテノン神殿が建設されてから約1世紀後だという話もある*2

ところで、フィボナッチ数列の隣接する項fnとfn+1の比はnが大きくなると1:τにどんどん近づいていくことが知られている。そういうわけで、これらの話はぜんぶつながっている。『ニンフォマニアック』の女性が口にした「3」と「5」という数字だけから、それはフィボナッチ数列だな、などと突飛な連想をした頭でっかちの童貞セリグマンが考えてたのは、だいたい以上のようなことだと思われる。

なお、この記事を書くにあたってコクセター『幾何学入門』11章を参考にした。

Postscript(2018/1/5)

コクセター『幾何学入門』は黄金比をτと表しているが、上の図ではφと表されている。オルセン黄金比』という本(けっこう胡散臭い本)によると、τはギリシャ語で切断・分割を表す言葉の頭文字に対応するようだ。ギリシャ語は知らないけど、原子atomの語源を考えれば、そんな気もする。他方、φはパルテノン神殿の建築にも携わったフェイディアスの頭文字である(p.2)。

なお、オルセンは黄金分割というアイデアのルーツの一つとして、プラトン『国家』の線分の比喩を挙げている。プラトンは「一本の線分をとり、それを等しからざる部分に二分せよ」(509D)という寓意的な問題を設定した(p.2, p.57)。でも、これは単純に線分ABをAC > CBとなるように分割せよ、というだけのことであって、黄金分割せよと言ってるようには見えないが…。たしかに、黄金分割の話から線分の比喩を連想するのは自然だし、プラトン黄金比を知っていてもおかしくはないと思うけれど、『国家』の訳注や手元にあるプラトンの解説書の類をざっと見たところ、黄金比との関連を示唆するものは見つけられなかった。