Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

排中律の反例

直観主義論理では排中律(P v not-P)が成り立たないと言われる。しかし、これは排中律の否定が成り立つということではない。排中律の否定を仮定すると直観主義論理の範囲でも矛盾が導かれるので、排中律の二重否定が成立する*1

そういうわけで、排中律が成り立たないからといって、それを端的に否定することはできない。この文脈でしばしば言及されるのは、排中律への「弱い反例」といわれるものだ。例えば、「aのb乗が有理数となるような、無理数a, bは存在するか」という問題を解こうとして、√2の√2乗は有理数有理数でないかのどちらかである、という形で排中律が使われる。直観主義者にとっては選言文を主張できるのは、どちらか一方の選言肢を証明したときに限られるので、仮定ではなしにこの選言を主張することは許されないのに、である。とはいえ、このことは「√2の√2乗は有理数有理数でないかのどちらかである」の否定を主張するのとは違う。だから「弱い」反例。

量化が言語に含まれる場合、事情はもう少しややこしくなる。古典論理では

  • ∀x(Fx v not-Fx)

が成り立つ。QLEMとでも呼んでおこう。先ほどの命題論理からの類推でいけば、直観主義でも、QLEMの二重否定

  • not-not-∀x(Fx v not-Fx)

は成り立ちそうに思える。しかし、どうもそうではないらしい。一階論理では、 not-∀x(Fx v not-Fx) という主張が成り立つ余地があるらしい。直観主義数学、例えば実数論では、実際にそういう例があるようだ。

排中律の否定が矛盾であるにも関わらず、モデルによってはQLEMの否定が成り立つということがどうして起きるのか、以前は理解できなかった。今思うと、いくつかの混乱があった気がしている。

まず、直観主義では二重否定除去(not-not-P ⇒ P)が成り立たないが、二重否定導入(P ⇒ not-not-P)は成り立つ。しかし、二重否定導入が成り立つこととnot-not-Pが成り立つことは別である。Pが成り立たなければnot-not-Pを結論づけることなどできない。

たしかに、古典論理直観主義論理に埋め込めるという話もある。雑にいえば、ある式が古典論理トートロジーなら、それの二重否定が直観主義論理でトートロジーとされる(二重否定翻訳)。それはそうだ。しかし,そのことから、QLEMが古典論理の妥当式ならQLEMの二重否定が直観主義論理の妥当式だ、というのは飛躍がある。二重否定翻訳が成り立つのは命題論理の範囲に限られており、一階論理で成り立つとは限らない。そのため、直観主義論理では排中律の否定は矛盾だが、QLEMの否定は成り立ちうる、と言っても問題は生じない。

関連記事

*1:多値論理、例えば、三値論理では排中律の否定も整合的であり、成り立つ余地が残されている。