Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

確証バイアス

ウェイソンの選択課題とか確証バイアスについて、少しばかり調べものをした。ウェイソンの選択課題については

サーベイが(割と専門的なので理解が及ばなかったところもあったが)参考になった。

確証バイアスについては、英語版wikipediaの"confirmation bias"が日本語版よりだいぶ充実しててよかった。「確証バイアス」という名称はウェイソンに由来するそうだが、似たような考え方は昔からあったということで、いろいろな古典が紹介されてる。一例として、フランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』46節から引用してみる *1

人間の知性は(あるいは迎えられ信じられているという理由で、あるいは気に入ったからという理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、ほかの一切のことを引き寄せるものである。そしてたとい反証として働く事例の力や数がよりだいであっても、かの最初の理解にその権威が犯されずにいるためには、大きな悪意ある予断をあえてして、それらをばあるいは観察しないか、あるいは軽視するか、あるいはまた何か区別をたてて遠ざけ、かつ退けるかするのである。

このように述べたあと、ベーコンは興味深い例を提示する。

海難の危険を免れたので誓いを果たしている人々の図が、寺に掲げられているのを示して、さて神の力を認めるかどうかと、尋ねつつ迫られたかの人は、正しくもこう応じた。すなわち彼は「だが誓いを立てた後に死んだ人々は、どこに描かれているのか」と問い返したのである。

神を信じていたのに海難でおぼれ死んだ人がたくさんいたはずなのに、絵画の中には海難の危機を乗り越えた人々だけが登場するので、それだけ見ていると、彼らはまるで神の力によって助けられたかのように思えるだけだ、ということか。

かくして、ベーコンは結論する。

占星術、夢占い、予言、神の賞罰その他におけるごとき、すべての迷信のやり方は同じ流儀なのであり、これらにおいてこの種の虚妄に魅せられた人々は、それらが満たされる場合の出来事には注目するが、しかし裏切る場合には、いかに頻度が大であろうとも、無視し看過するのである。 

*1:岩波文庫pp.87-88