岩波の『フロイト全集』に付いている月報20から。白井聡「いまフロイトを読むこと」
フロイトを今日あらためて読み直し、評価する際に、エディプスコンプレックスの教義をどのように取り扱うべきかという問題は、やはり避けて通ることのできない・・・この教義に対してこれまで数多くの強力な批判が投げかけられたことを思い返してみると、ここに現出するのはいささか厄介な事態であるかもしれない。
エディプスコンプレックスの教義に対する「数多くの強力な批判」として白井は次のように書いている。
フェミニストたちは、この教義にフロイトにおける男性中心主義・家父長制イデオロギーの抜きがたい限界を見て取った。あるいは、ドゥルーズ=ガタリは、本来無定形なはずの欲望がつねに「パパ・ママ・僕」の三角関係に封じ込められており、それは歴史上特殊な形態としてのブルジョア家族における欲望の関係を不当にも超歴史的に拡大している、という批判を加えた。
これらの批判は強力なものである。
これらの批判が強力なのかどうか私には判断できないが、この箇所を一読したとき「心理学や人類学からの批判になぜ触れないのだろう」という感想をもった。実は、次のページにこう書かれている。
フロイトがエディプスコンプレックスの教義を最も大胆に展開し、それゆえにこの教義の思想的本質が最も明瞭に表現されている作品は、『トーテムとタブー』(1913年)である。今日この著作に対する学術的評価がいかなるものであるのか著者には不明であるが、人類学や宗教学の分野においてそれが高かろうはずがないことは、容易に想像がつく。
エディプスコンプレックスの教義が展開されているのが『トーテムとタブー』という著作であり、人類学や宗教学で『トーテムとタブー』の評価が高くないと容易に想像できるなら、人類学や宗教学においてエディプスコンプレックスの教義も批判されていないかどうか、批判されてるとしたらどんな理由で批判されてるのかをなぜ調べようとしないのだろうか。「著者には不明であるが」と言っている場合でないように思うが、フェミニズムやドゥルーズ=ガタリからの批判があるから批判はもう十分ということなのかもしれない。
白井のことは措くとして、私自身は今のところ次のように理解している。『トーテムとタブー』でフロイトは、エディプスコンプレックスの歴史的起源として原父殺しという出来事を措定した。しかし、原父殺しなどという出来事を措定する証拠としてフロイトが考えていた事柄は、原始乱婚制とか類別的な親族名称は原始的であるといった、今日の人類学や考古学では疑問視されている見解である。たしかに、これらの見解は当時としては広く普及していた見解なので、これをもってフロイトを責めることはできない。でも、今となっては時代遅れで偽の証拠に基づいているなら、原父殺しは胡散臭い。そして、原父殺しの出来事がなかったのなら、エディプスコンプレックスの歴史的説明にも失敗したことになる。
エディプスコンプレックスの歴史的説明の妥当性は別として、そもそもそんな心理現象が存在するのか、という点も疑いうる。幼児性欲は無意識と仮定されているので確証も反証も難しいが、ウェスターマーク効果と幼児性欲の仮説は相性が悪いし、フロイト(やフレイザー)によるウェスターマーク効果への懐疑論には反論ができる。インセストの有害性と、ウェスターマーク効果がインセストを避けるための巧妙な至近メカニズムとして現在では割と受け入れられていることを考慮すると、エディプスコンプレックスの存在を信じる積極的な理由は薄い。