大昔の哲学者の中には華々しい人生を送った人もいるが,色っぽい話はあまり聞かない.それどころか,ニーチェによれば,これまで結婚していた偉大な哲学者などそもそも存在しないらしい(ヘラクレイトス,プラトン,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,カント,ショーペンハウアーといった名前を挙げている)。彼は次のように述べている.
結婚した哲学者は喜劇ものだ.これが私の教条である.そしてソークラテースのあの例外は,どうかと言えば,意地の悪いソークラテースは,わざわざこの教条を証明するために,反語的に結婚したものらしいのだ.*1
ソクラテスの妻はクサンティッペという.哀れなことに彼女はモーツァルトの妻などと並んで悪妻として名高い.たとえば,次のようなエピソードが知られている。
初めのうちはがみがみと小言を言っていたが、のちには彼に水をぶっかけさえしたクサンティッペに対して、彼はこう応じた。「ほうら、言っていたではないか。クサンティッペがゴロゴロと鳴り出したら、雨を降らせるぞと。」
…
彼はよく、気性の激しい女と一緒に暮らすのは、ちょうど騎手がじゃじゃ馬と暮らすようなものだと言っていた。「しかし、彼ら騎手たちがこれらの馬を手なずけるなら、他の馬もらくらくと乗りこなせるように、ぼくもまたそのとおりで、クサンティッペと付き合っていれば、他の人々とはうまくやれるだろう」と言ったのである。*2
最初のエピソードは中世の人々にとってもお馴染みの話だったようで。例えば、アベラールの「厄災の記」にはこうある。
あるとき彼は、階上からクサンティッペがとめどもなく罵言を浴びせるのをじっと我慢していたが、その上汚い水をかけられると、ただ頭を拭いて、「こういう雷の後では一雨くるのはわかっていたよ」とつぶやいてそれに答えただけだった*3。
しかし、こうしたクサンティッペ悪妻説はプラトンの記述の中に根拠があるわけではないようである*4。気が強い女性ではあったのだろうが、それでも,『パイドン』の冒頭などをみると、獄中で死に際したソクラテスを訪ねて泣き崩れたという描写があり、普通の女性という印象をうける。
斎藤忍随『プラトン』(岩波新書)によると、Xanthippeという名前が語源的には「栗毛色の雌馬」という意味になることから、後世の人が面白おかしく色々な逸話をでっちあげたのだろう、とのことである。
Postscript (2019/8/21)
ルゴフ『中世の知識人』p.57によると、『ヨウィニアヌスに反駁する』は12世紀に広く読まれた著作で、賢者の結婚を非とするような考え方を広めるのに役立ったらしい。これが、宮廷恋愛の誕生や、アベラールがエロイーズと結婚しなかったことの原因の一つとなった。クサンティッペを悪妻とするのは、ソクラテスは結婚なんてすべきじゃなかった、という例証としてなのだろうか。