Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

仲正氏のポストモダン擁護

この文章の中で、仲正氏は「念のために言っておくと、私はいろんなところでフーコーデリダを参考にしているが、「ポモ」を信仰しているわけではない」と断っているが、普通に読めばこの文章は、読みもしないでポストモダン思想家たちを批判するのは筋違いだとしてポストモダン思想を擁護している、といってよいと思う。さて、この文章の中で私が注目したいのはソーカル事件についての彼のコメントである。

ポストモダン思想が“敗れた”と信じている人たちの多くは、「ソーカル事件」に言及する。ただし、ソーカル事件がどういうものだったかちゃんと理解している人は少ない。「何かすごい事件があって、ポモの欺瞞が暴露されたらしい」、という程度の幼稚な“理解”しかしていない輩が多い。この事件の概要をごく簡単に述べておくと、ポストモダン系の哲学者・評論家が、科学の専門用語を適当な比喩的意味で使っていることが多いことに、物理学者のアラン・ソーカルポストモダン系の知識人をからかうためのイタズラ論文を書こうと思い立ったことが、発端だ。ソーカルは、ポストモダン系の哲学者や社会学者の言説と量子力学の基本的考え方が相通じていることを明らかにすることを謳った、「境界を侵犯する――量子重量の変換的解釈学に向けて」といういかにもそれらしいタイトルの論文を書き、数学・自然科学系の専門用語らしきものを適当に並べたてた。それをポストモダン系の思想雑誌に投稿したところ、見事採用されてしまった、というものである。ソーカルたちは、これによってポストモダン系の学者たちの欺瞞が明らかになったとして、大体的に批判キャンペーンを繰り広げた。ポモ批判の人達は、このことを金科玉条のようにふりかざし、「ポモ思想に未だにしがみついている仲正は、ソーカル事件で、その欺瞞が明らかにされたことを知らないのだろう。バカだね(笑)」、とか言いたがる…

しかし、ソーカル事件は、哲学の根幹に関わる問題ではない。かなりトリビアルな話である。ソーカルに名指しされているラカンドゥルーズボードリヤールクリステヴァなどが、物理学や数学などの最新の研究成果に関して、科学哲学・メタ理論的な見地から論評する論文を書きながら、元になっている研究の基礎的な概念を間違って使っていたというのであれば、致命的だが、彼らは記号、主体、欲望、無意識などについて論ずる文脈で、自然科学の概念を比喩として借用しているだけであり、全体の論旨にはあまり影響しない。確かに、よく分からない分野から比喩表現を借りてくるのは軽率だが、著者の軽率さをもって、理論や主張を全て否定しようとするのは飛躍である。

うーん、どうして挙証責任が批判者の方に押し付けられなければならないのかなぁ。ソーカルらが『知の欺瞞』で行った指摘が「全体の論旨にはあまり影響しない」ということをきちんと示さなければいけないのはポストモダン側の方であって、決して批判者の方ではない、と私は言いたい*1

ソーカルらは、ラカンクリステヴァたちが数学や物理学の専門的な概念をろくに理解もせずに使用していることを、ほとんど有無を言わせない仕方で示した。ポストモダン側はこのことをもっと真剣に受け取るべきだと思う。確かにわれわれは、自分が知らないことを知っていると勘違いしてしまうことがある。難しい用語を軽率に使ってしまうこともあるだろう。しかし、ソーカルらが吊し上げた人々の何人か(すべてとは言わない)が犯した間違いは、勘違いとか「軽率」とかいうレベルをはるかに越えている。選択公理axiom of choiceを擁護することは、妊娠中絶を認めること(pro choice)と関係があるとか、そういうのだ*2

これほどお粗末な間違いを犯すほど知的に不誠実でいい加減な人々が、数学や物理学とは別の分野では、他の追随を許さないほど優れた業績を上げている、とどうして信じなければならないのか?たしかにそういう可能性はある(微レ存)。でも、そうでない可能性の方が高いのではないか*3

例えば、ホッブズが自然状態において「人は人に対して狼である」と述べていることや、ルソーが描く、孤独に生きる野生人のイメージは、動物生態学や人類学の見地から見て出鱈目もいいところだろうが、それをもって、彼らの社会理論を全否定しようとするのは、バカげている。 

この弁明はかなり空疎に聞こえる。ホッブズやルソーが述べたその種の見解が現在の観点からみてデタラメだとしても(本当にそうなのかを私は知らない)、ソーカルらが吊し上げた人々のやらかした間違いはそんなレベルを越えていると思われるからだ。

私のスタンスはそういうわけなので

何かのブームにのってスターになった人に憧れ、その真似をしたがるイタイ連中が出て来るのは、「ポストモダン系」に限った話ではない。 

という主張も特に痛くはない。たしかに、不完全性定理をろくに理解しないで知性の限界を云々する人々がいるからといって、ゲーデルが偉大でなくなるわけではない。なぜなら、ゲーデルが偉大であることを示す肯定的な証拠がたくさんあるからだ。ポストモダン思想が優れているというのなら、その肯定的な証拠を出せばよい。しかし、どうして批判者の方がそれを読み解かなければいけないのか。ソーカルたちは彼らのベストを尽くしたのに・・・。

Postscript (2015/9/9)

上の記事が仲正氏によって取り上げられていた。

こんな不人気のブログの記事にまで突っ込むって…暇だね。ネット上の人々をさんざん罵倒しているけど、この人、罵倒しないと呼吸できないのかしら。まともな大人の、ましてや大学教授のやることとは思えない。

私の記事に関するコメント部分についていえば、正直いって、どれもつまらない揚げ足取りだと思った。そもそも、上の記事で、私はソーカルの記述だけでラカンクリステヴァの理論が全て否定されたとまで主張したつもりはない。私のポイントは数学とか物理学に関してあれほどずさんな間違え方をする人たちが彼らのフィールドではまともなアウトプットを出していると信じる理由は別にない、というところにあった。以上を踏まえた上で、個別の論点についてコメントしておく。

  • タイトルからして誤解しているというが、上の記事の最初で、仲正氏は「ポモ」を信仰しているわけではないと言っていると私は断っている。その上でなら、彼が元の記事でやったことは広い意味で「擁護」と言ってよいのではないか。
  • 註でソーカル&ブリクモンもそう言っているという箇所が実際はブーヴレスが言ったことだというが、私は註で「『知の欺瞞』の序文でも書かれていた」と書いたのだが、引用も書かれていることの内に含めちゃだめなんですかね。たぶんソーカルらもブーヴレスに同意していると思うけど。
  • 「挙証責任」という言葉を誤用していると言いたいようだが、ブーヴレスの用法を容認するのなら、ソーカルらが指摘した間違いは個々のポストモダニストたちの仕事にとって本質的ではないことをそちら側が示すべきだ、という私の用法はなぜ認められないのだろうか。思うに、仲正氏と私のここでの争点は用語法ではなく、ポストモダニストたちの犯した間違いをどのくらい重くとるかにかかっている。ソーカルらが指摘したポストモダニストたちの間違い方というのは連中の知的誠実さ・能力を疑わせる強力な証拠になっているが、仲正氏はそれを軽くみている、というのが私の意見なのである。

たしかに、私はラカンクリステヴァ精神分析が重要な洞察を含んでいるという可能性にかなり懐疑的ではあるが、確信まではもっていない。もし本当にラカンクリステヴァが彼らのフィールドでは凄いことを言っていることが有無を言わせぬ仕方で判明したとすれば、私は彼らを祝福してもいいよ。

これは皮肉ではない。例えば、私はキリスト教の信仰心などみじんもない人間だが、アンスコムやダメットのような哲学者たちがカトリック教徒であることを知っている。そうすると、彼らのように極めて頭のよい人々が信じてるということは、本当にそこには何かあるのかもしれない、という疑いが頭をもたげてくることもある。同じように、自分の知り合いの中でもかなり優秀な人がラカンについて(ソーカルとかもふくめて色々な批判があるのを承知の上で)肯定的に語っているのを見たりすると、ひょっとすると間違っているのは自分かなと思わないでもない。もっとも、今のところはキリスト教ラカンのどちらに関しても、否定的なことを言う人たちが自分の周りでは多数派なので、わざわざ首をつっこもうとは思わないだけだ。

関連記事

*1:これは『知の欺瞞』の序文でも書かれていたことだ

*2:追記(2017/2/20):選択公理とpro choiceの関係をほのめかしたのはソーカルのパロディ論文であって、特定のポストモダニストではないという指摘をいただいた。申し訳ありません。『知の欺瞞』p.239f では、バディウが1980年代初頭の論文で似たような主張をしていた、とあるのだが、私の記憶が混乱したために誤った記述になってしまった。とはいえ、この間違いが本記事の論旨にとってそれほど致命的とは思わない。ソーカルが作った例とはいえ、パロディ論文はacceptされたのなら査読者はこの程度のデタラメも見抜けなかったわけだから、そのことはこの業界の信頼性を疑わせるし、それに、この例ほど奇天烈ではなくてもしょーもない間違いは『知の欺瞞』に沢山出てくるのだし。

*3:ドーキンスも『知の欺瞞』の書評で同じようなことを言っていたと思う。