Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

『存在論的、郵便的』批判

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

この本はゲーデルに不用意に言及していることもあって、ソーカル事件以降に熱を帯びた現代思想叩きにおいて標的になった。しかし、実のところ、ゲーデルに言及している箇所を別にしても、この本は言語哲学に関する話題をやや問題のある手つきで扱っていると思われる。
以下では、『存在論的、郵便的』からラッセルとウィトゲンシュタインクリプキについて論じている箇所を取り上げてコメントしていく。ページ数は『存在論的、郵便的』に対応している。かなり細かい論点もあるが、それでもいくつかの論点には実質的な中身があると思う。

ラッセル

後者[=ラッセル]は1905年の有名な論文において、固有名の確定記述への還元可能性(記述理論)について語ったあと、引用符の機能に言及している。ラッセルの言語論においては、文あるいは句は一般に「表示」と「意味」を持っている。確定記述へと還元されるのは「意味」であり、「表示」は言語外的な実体を指す。例えば、「太陽系の質量中心」はある空間点を表示し、かつ一群の確定記述と等置可能なある観念を意味する。p.299

ラッセル解釈上、この箇所には色々と問題がある。

まず、ここでいう「1905年の有名な論文」は、ラッセルの論文「表示について」を指していると思われる。しかし、この論文でラッセルが固有名は記述の省略だという考えを表明しているのかどうかは少し微妙である。一般には省略説といえば『論理的原子論の哲学』6章あたりが引かれる。「表示について」の中で省略説らしき考えを示唆しているのは、次の箇所にとどまると思われる。

アポロンについての命題は、アポロンの意味として古典学の辞書が教えてくれるもの、すなわち「太陽神(the sun-god)」を代入することで得られるものを意味する。

「表示について」で明確に提示されているのは、省略説よりもむしろ、確定記述を含む表示句を量化子によって消去するための手続きの方である。厄介なことに、どちらも「記述理論」と呼ばれうるのだが・・・。東は固有名の省略説を「記述理論」ないし「記述主義」と呼んでいるが、確定記述を量化子で消去する手続きについては特に議論していない。私が思うに、東がこれら二つの考えをきちんと区別しているのかどうかは、後でみるようにかなり微妙である。

次に、「意味」と「表示」の対に注目しよう。たしかに「表示について」には“meaning” と “denotation” の対を問題にしている箇所があるが、もし東がこの対を問題にしているのであれば、"denotation"の訳は「表示対象」が適切だと思われる。これに対し、東も註113で記しているように、"denoting" ならば「表示」と訳すのが適切である。これは細かい指摘だが、もちろん訳語の選択だけに関わる些末な問題に注意を向けたいわけではない。私が指摘したいのは、文や句などの言語表現一般が、意味と表示対象をもつという考えはフレーゲ的な二元論であり、「表示について」のラッセルはむしろこの考えを放棄しているはずだ、ということである。たしかに、ラッセルは『数学の原理』および「表示について」の半年前の論文「命題の存在論的含意」(1905)では、こうした二元論を擁護していた*1。「表示について」で意味と表示対象の区別が問題になるのは、フレーゲとかつての(といっても2年前だが)自分の立場を批判する箇所においてである。したがって、「ラッセルの言語論においては」という言い方はかなり不用意である。

そして、「確定記述へと還元されるのは「意味」であり」という箇所は意味をなしていないように思う。次の文で「「太陽系の質量中心」は…一群の確定記述と等置可能なある観念を意味する」とあるが、そもそも「太陽系の質量中心(the center of mass of the solar system)」が確定記述なのではなかろうか。

東はさらに次のように続けて述べている。

そしてそこで彼は、「引用符」は句を「意味をもたない」「句そのものphrase per se」に変えると述べている。例えば「『太陽系の質量中心』」は8文字で書かれたその句そのものを表示し、ほかには何も意味しない。つまり引用符には、ある句、ないしは語…をその確定記述への等置可能性から引き離す機能がある。p.299

ここで東が参照しているのは、「表示について」の以下の箇所である。カッコ内は東による。

句そのものはいかなる意味ももっていない。なぜならそれが現れるいかなる命題においても、完全に表現されて[=確定記述に置き換えられて]しまえば、その命題はその句を含まないからである。句は分解されてしまう。

しかし、この箇所でラッセルは引用符の話をしているわけではない。単に、表示句は不完全記号でありそれ自体では意味をもたない、というお馴染みの主張をしているだけである。したがって、カッコによる挿入も場違いである。思うに、こうした誤読が生じた原因は、固有名を偽装された記述とみなす省略説と、確定記述を量化子を用いて消去する手続きの二つを混同したことにあるのではないだろうか。

ウィトゲンシュタイン

論理実証主義は21年、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に始まったと言われる。p.227

この整理は標準的ではない。ウィトゲンシュタイン論理実証主義者にふつうカウントされないし、そもそも、シュリックやライヘンバッハの活動は1921年より前に始まってる。例えば、シュリックの主著『一般認識論Allgemeine Erkenntnislehre』は1918年、ライヘンバッハの『相対性理論アプリオリな知識Relativitätstheorie und Erkenntnis apriori』は1920年に出版されている。ウィトゲンシュタイン論理実証主義者たちに影響を与えはじめたのは1920年代中頃、下手すると後半ではなかろうか。

私たちは、「あるもの(例えばペガサス)が存在するか否か」は有意味に問うことができる。それは命題∃xPegasus(x)の真偽についての問いにすぎないからだ。しかし[…]命題∃xPegasus(x)自体はその真偽に無関係に存在する。そして対象ペガサスの「存在」自体、つまり∃xそのものの意味を直に問うとは結局、命題∃xPegasus(x)自体の存在根拠を問うこと、分かりやすく言えば「そもそも何故私たちはペガサスについて語っているか」を問うことに等しい。この探求は限界を超える。ひとは命題の真理については有意味に語れるが、何故そもそもその命題が存在するかについては語れない。p.228

「ペガサス」は固有名なので、普通は"Pegasus(x)" のような述語としては扱わない。もっとも、クワインの"Pegasize" とかもあるので、"∃xPegasus(x)" という表現が理解不能とまでは言えないが。

ちなみに、東は固有名と一般名の区別に関してかなり鈍感なところがある。たしかに、フレーゲ-ラッセル的な見解に対するクリプキの批判が、固有名だけでなく「一部の一般名へも拡張される」とも述べている(p.110)。この箇所は、東が固有名と一般名の区別を理解していることを示唆する。しかし、その期待はすぐに裏切られる。p.120以降の叙述をみると、彼は「一角獣unicorn」を固有名として理解している。だが、「一角獣」はふつう一般名ないし述語とされる*2

話をウィトゲンシュタインにもどそう。上で引用した箇所に関して私がもっとも疑問なのは、よりによってなぜペガサスを持ち出すのだろう、というものだ。たしかに、ウィトゲンシュタインは「何かがあるということが神秘だ」とか言っているので*3、むしろ、存在するということに関しては異論が生じないような対象(命題ではなく)を例に挙げて、そいつの存在根拠を問うことは思考の限界を越える、とか言えばよかったのではなかろうか。それと、「そもそも何故私たちはペガサスについて語っているか」という表現は曖昧で何が問題になっているのか不明瞭だ。素朴に考えれば、これはただの心理的な問いではなかろうか。

クリプキ

固有名のフレーゲ・ラッセル的見解に対するクリプキの批判について議論している箇所をみてみよう。

例えばいま、アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えてはいなかったという新事実が判明したとする。記述理論にしたがえば、そのとき私たちは「『アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題をもつこととなる。しかしこの命題は単なる論理的自己矛盾(AはAでない)であり、そもそも有意味でない。p.111

細かい点だが、そもそも引用符を使う理由がない。「『アレクサンダー大王を教えた人』」は文字列「アレクサンダー大王を教えた人」を指示するので、「『アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」は矛盾ではなく単に偽である。また、矛盾であると言いつつ、そもそも有意味でないと言うのがひっかかる。背理法の証明において矛盾を使うことを考えると、矛盾を無意味というのは危険である*4

問題はここからである。クリプキの『名指しと必然性』には、固有名が記述の束ではないことを示す議論が少なくとも二つある。一つは、上の引用にもある argument from errorである。これとは別の議論は、「dはdでなかったかもしれない」という文の評価が、dが固有名と記述のどちらであるかに応じて異なる、という洞察にもとづく様相的議論である。思うに、東はこれら二つの議論を区別していない。そう判断したくなる証拠がいくつかある。

  1. 東はp.112で「固定指示子rigid designator」の概念を導入しているが、すでに述べたように、上の議論は様相的議論ではない。そもそもこの本には「固定指示子」の適切な定義が存在しない。ちなみに「可能世界」は「条件法で表現される世界」と定義されている(p.123)。
  2. 東は「命題の訂正可能性」という表現を頻繁に用いるが、訂正可能性は認識論的な可能性であって、反事実的な可能性とは別ものだろう。

もう少し先を読んでみよう。

『名指しと必然性』の議論は最終的に、固有名の剰余を説明するために「命名儀式」の神話を持ち出した。そこでは剰余が実体的に捉えられてしまっている。[…]しかし私たちがいま検討したことは、固有名の剰余そのものが転倒の結果であることを教えている。それはもともと確定記述を訂正する根拠として仮定された。しかしもしその訂正可能性がコミュニケーションの場によって規定されるのであれば、その根拠は固有名そのものにではなく、むしろその伝達過程のなかに見出されなければならない。名「アリストテレス」が流通する社会的空間こそが、まずその訂正可能性を規定する。その訂正可能性から複数の可能世界が構成され、そこから逆に諸可能世界に共通する名「アリストテレス」の実体を探し求めようとしたときはじめて、ひとは固有名に「剰余」があるかのように錯覚する。クリプキもまた、その錯覚にひっかかってしまった。p.124

命名儀式の神話というが、どの辺が神話なのか不明瞭だ。言語の中に新たに固有名を導入するときに命名儀式のような出来事があると考えるのは自然であり、社会契約説でいう社会契約が神話だと言われるのとはだいぶ違うと思う。たしかに、固有名が導入されるときはいつでも対象に面と向かって命名するというわけではないだろう(例えば、これまら生まれてくる子供に名前をつけるときなど)。クリプキはその点を認めている。それでも、会話の文脈の中で何らかの際立った対象に対して命名する、という形で新たな固有名が導入される、という風に想定するのは自然だろう。

そして、固有名の剰余などという実体をクリプキは措定していない!クリプキは「固定指示子」をそういう風には使っていないのだ。「固定指示子」は指示表現に関する特徴づけであって、残余のことでもなければ指示対象のことでもない*5 。たしかに、ジジェク大澤真幸は「固有名の剰余」という言いまわしを好んで用いるが、固有名が確定記述の省略でないということから、固有名のなかに残余がある、という教訓を引き出すことは言語哲学では全く一般的でない。

東は、「固有名は確定記述とは根本的に違う指示表現だ」などと言えばよかったはずだ。そして、クリプキはこのテーゼをargument from error、つまり東の言い方では「命題の訂正可能性」からの帰結として擁護しているのである。クリプキは、固有名が確定記述とほぼ同義的な用法をもつケースがありうることを自覚している。例えば、不完全性定理の証明を読みながら「ここの箇所のゲーデルの筆の運び方はsloppyだ」などと言ったとする。ところが、不完全性定理の本当の証明者はシュミットだったことが判明したとする。その場合には、この発言の「ゲーデル」はシュミットを指示するのではないか、という直観が成立しうる。つまり、固有名には確定記述と同義の用法もそうでない用法のどちらも原理的にはありうるのだが、どういうわけか我々は固有名を確定記述とは別の仕方で用いているというのがクリプキの基本的な観察である。この観察を説明するための道具立てとして指示の因果説というpictureが描かれることになる(この点に関しては『存在論的・郵便的』p.125の議論はおおまかに正しいと思われる)。クリプキはいったいどこで転倒したというのだろうか。

これまでに述べたように、東は様相的議論とargument from errorを区別しそこなっているというのが私の推測だった。上に引用した文章中の「訂正可能性から複数の可能世界が構成され」という部分は、まさにこの推測を裏付けていると思われる。

ここまでのクリプキへの言及は固有名論に限られているが、もう少し後では規則のパラドクスにも触れられている。規則のパラドクスの問題を簡単に紹介した後、東は次のように述べている。

容易に分かるようにここでは『名指しと必然性』と同じテーマ(有限と無限の区別)が、「訂正可能性」の問題を前景にあらためて検討されている。私たちは名「アリストテレス」や記号「+」を使う。しかし私たちはその本当の意味、すなわち指示された関数や名指しされた人物を同定することは決してできない。私たちはつねに「名『アリストテレス』は実は…」「記号『+』は実は…」という訂正可能性に曝されているからである。p.131

こんな風に『名指し』と『ウィトゲンシュタインのパラドクス』を繋げられるのかは疑問が残る。ゲーデル=シュミット事例のような思考実験においてクリプキは別に懐疑論を論じているわけではないと思われる。不完全性定理を証明したのは実はシュミットだったという事実が判明したとしたら、その後の我々は「ゲーデル」という固有名をどう扱うか、をイメージしているだけで、「ゲーデル」がゲーデルを指示するということを知りえないとは言われていない。それに、「ゲーデル」がゲーデルを指示するという事実を根拠づける事実が何もないとは言われていない。指示に関する事実を根拠づける事実として、命名儀式からの因果連鎖が想定されているのだ。「+」がプラスを意味するという事実があるという想定に疑いをつきつける『ウィトゲンシュタインのパラドクス』とはだいぶ文脈が違うように思える。

クリプキへの言及はもっと後のページにも見られる。

私たちはあらゆる確定記述について、つねにそれが否定された可能世界を想定することができる(「アリストテレスプラトンの弟子ではなかった世界」「『自然学』の著者ではなかった世界」「アレクサンダー大王の師ではなかった世界…)。p.248

細かいことだが、否定できるのは文であって確定記述は否定できない。おそらく、東が言いたいのは、正確にいうと、任意の固有名"a"に関して、"a"が"the F" "the G"... といった確定記述と共通の指示対象をもつとすると、aがthe Fでない世界、aがthe Gではない世界… といった世界が考えられるということだろう。

問題は「あらゆる」という部分にある。例えば、数詞の場合には問題が生じる。2が4の正の平方根ではない可能世界、などは普通は認められない。この種の困難のため、「固有名は固定指示子だが、確定記述は非固定指示子」といった見解を単純に採用することはできない。

小言

最後にちょっとした小言をのべておく。

オースティンによればこの場合好ましいのは、むしろ「幸」「不幸」という概念対立である。「私は結婚します」と述べているのに私がそうできなかったとすれば、その言明は偽というよりも「不幸」だったわけだ。p.16

"happy"と"unhappy"の訳は「適切」と「不適切」のがよいだろう。辞書ひけよ。

クワインは48年の論文「何が存在するのかについて」において、「存在するとは変項の値であること」だと主張し(つまり再度カルナップ=ラッセルの定式化を確認し) p.229

"To be is to be the value of a variable" はクワインの定式化であって、カルナップとラッセルは関係ないと思う。

*1:飯田隆言語哲学大全I』pp.185-187

*2:実際『名指しと必然性』邦訳p.26をみると、クリプキも「一角獣」を述語の一例とみなして議論を進めているのである。

*3:論理哲学論考』6.44

*4:クワイン『論理的観点から』pp.7-8をみよ。ただし、『論考』のウィトゲンシュタインは二種類の無意味を区別し、矛盾とトートロジーを「sinnlos」と呼びつつ「アブラカダブラ」のような「unsinnig」から区別している。そういう区別を踏まえた上で「矛盾は無意味」というなら理解できなくもない。

*5:「ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子と呼ぼう。…もちろんわれわれは、対象がすべての可能世界に存在することを要求しはしない。必然的存在者を指す固定指示子は、強い意味で固定的と呼ぶことができる」。『名指しと必然性』邦訳p.55