いいかげんに読まれるくらいなら読まれないほうがいいでしょう。マジメかアソビかの二項対立次元が問題なのではなく、言語そのものを問う次元とプラグマティズムが無縁でない領域を見出せるかどうかが重要でしょう。@hazuma デリダはもっといいかげんに、プラグマティックに読むべきなのだ。
— Shigeo Hayashi (@HAYASHI_twit) 2014, 3月 16
いいかげんに読まれるほうが読まれないよりいいに決まってるよ。というか、多くの場合、読みはいいかげんなんだよ。コミュニケーションの本質について考えろ。
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2014, 3月 16
こういうツイートを見ると、何ていうか、彼の話術というか口喧嘩における強さが分かる気がする。争点にすることにそれほどポイントのないところを争点にする力というか。私には到底できない芸当だ。
たしかに、いい加減であっても読まれた方がいい、というのはある意味では正しいと思う。全く読まれないテキストなんてかみ合ってない歯車みたいなもので、存在しないも同然だし。いい加減にでも読む人がいれば、読者の中で批評活動が起きたり、真面目に読む人も出てくるかもしれないし。
しかし、他方で、そんな極限状態の話をしてどうするのかという疑問も湧く。いい加減に読むくらいなら読まない方が害悪が少ないと言える文脈は間違いなくある。数学基礎論とか自然科学では特にそのはずで、それこそ不完全性定理とか量子論なんて典型的じゃないかと思う。というか、ソーカル事件の教訓ってそういうところに求めるべきじゃないのだろうか。哲学は例外なんだろうか。そうは思えない。私はフランス現代思想なんて全くの素人だけど、ドゥルーズを読んでる友人とかはデカルトやヒュームといった近世哲学に普通に詳しいし、そういう教養なしに我流の読みをしても、第三者から見れば痛い人に見えるのがオチだと思う。