Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

現実の向こう

[例の対談へのコメントは長くなりそうなので、最初のエントリーに統合してチマチマ更新していくことにします。他のことが全く書けなくなるので。]

唐突だけれど、お探しのページが見つかりませんでした。 - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局を見た。というか、Videonewsのニュースコメンタリーは毎週チェックしてはいるのですが。ここ何週かにわたって宮台氏が強調しているのは、この種の有識者委員会に決定を委ねてしまうと、委員会メンバーの人選をする段階で決着がついてしまうということである。彼は愚民観を踏まえたうえで間接民主主義を正当化するオーソドックスな政治学に対して、科学者や知識人による啓蒙をほどこした上で一般人によって重要な決定を行う直接民主主義的なものを擁護しようとしている。

私の考えでは、この主張は真っ当であり、それが真っ当であることはVideonewsが毎週のようにウォッチしている原子力関連の委員会の惨状を見れば、少なくとも心情的には理解できると思う(編集の仕方にいささか悪意があるとはいえ、膨大な時間をかけて重要な発言を切り出してくる編集者の労力を賞賛したい)。しかし、素朴な疑問として、なぜ有識者委員会に決定を委ねると上手くいかないのだろうか。

リンク先の動画で宮台氏が指摘するのは、要するに、科学をするには金がかかるので、真理を追究する科学者といえどもある種の利権構造に巻き込まれる当事者にならざるをえないので、彼らを最終的な決定の主体からははじくべきだという論点である。これはリアリスティックな答えといえよう。では、他に何か付け加えることがあるだろうか。

たぶん、宮台氏の宿敵である大澤真幸氏ならもう少し哲学的な色彩を加えようとするだろう。以下は私なりの再構成である。なるほど、科学者は結局のところ利害当事者にすぎないのかもしれない。しかし、仮にだが、日本人の科学者がケチのつけようもないほど誠実で真摯な研究者であったとすればどうか。彼らが誠実であるなら、愚民どもを教育するなどという無駄なプロセスを経る必要などなく、彼らに決定を委ねればスムーズではないか。いや、そうではないのだ。誠実とか真摯といった美徳は、真っ当な社会的決定をアウトプットすることの充分条件にはならない。なぜなら、科学者は人の子であって全知ではないからだ。結局のところ分からないのだから、彼らがベストな選択をするとは限らない(第三者の審級the third instanceの失効)。

しかし、科学者がベストな選択をするとは限らないとしても、以上の議論は一般人に決定を委ねるべきだという論証にはまだ足りない。そこで、大澤は、偶有性contingencyの馴致という観点を打ち出す。古代社会において、重要な社会的決定はしばしば占いなどを用いた神託によるものだった。分からないことは神様に聞くというところだろうか。そうすることで、分からないことへの不安が解消される。その際に、偶有性から必然性へという様相の転換が起こるという。

これが偶有性を馴致するための古代の知恵である。だが、同じ方法を現代に持ち込むことはできない。単なるくじ引きのようなもので重要な集合的決定を行うことなど不合理にしか見えないからだ。なので、多少の工夫がいる。すなわち、利害当事者をできるだけ排した中立な人々に決定を委ねるということである…。

私はこの理路はそれなりに傾聴に値すると思う。というか、最近になってようやく大澤が何を言っているのかがボンヤリとだけれど分かってきた気がする。突っ込みどころというか気になる点があるとすれば、偶有性と不確実性を混同していないか、ということだけれど。それはまた別の話。

現実の向こう

現実の向こう

  • 補足:『現実の向こう』といえば、p.51の「別のところで書いたこともある」の「別のところ」がどのテキストなのか、どなたかご存知ないでしょうか…??