Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ステファヌス数

岩波文庫などでプラトンの本を手に取ると、ページの上の方に数字が印字してあるのが目につく。これはステファノス数といって、1578年に古典学者・印刷業者のアンリ・エティエンヌ(ラテン名ヘンリクス・ステファヌス)によって刊行された3巻本のプラトン全集のページ数に由来する。ステファヌス版の全集は、ギリシャ語原文とラテン語訳を併記していて便利だったので、現代でも引用箇所を示すときにはステファヌス数を明記するのが慣例になっている。

上述のような説明は、ブラックバーンの『プラトンの『国家』』冒頭の「凡例」(p.4)で与えられている。大学に入ったころの私は、この本でステファノス数について知ったので、この本はかなり懐かしい本である。ところが、最近この箇所の邦訳に誤訳を見つけた。邦訳では、エティエンヌのプラトン全集は「ジェノヴァ」で刊行されたと書いてあるのだが、これは「ジュネーヴGeneva」の間違いである*1ジェノヴァの綴りは「Genova」である*2。これは、木田元のような碩学にしては結構恥ずかしい間違いではないかと思われる。

なお、プラトンの著作がどのような経緯で現代に伝わったのかについては、次の本の納富先生の解説が素人にも分かりやすくて便利だ。

テクストとは何か:編集文献学入門

テクストとは何か:編集文献学入門

 

*1:ちなみに、ジュネーブ大学はフランス語圏ではめずらしく分析哲学の牙城になっているらしい。これはパスカル・アンジェルという著名な研究者のおかげかもしれない。

*2:ちなみに、FF7ジェノバの綴りは「Jenova」。

バーンスタイン『豊かさの誕生』

ウィリアム・バーンスタイン『豊かさの誕生』を読んでいる*1

本書で目指しているのは、19世紀の初頭に合流し、その後の近代世界に飛躍的な経済成長をもたらした文化と歴史の諸潮流を明らかにすることだ。p.6

amazonのレビューなどを見ると、類書としてダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』が挙がってる。バーンスタインも類書としてダイアモンドの本に言及している。ただし、ダイアモンドは結局『銃・病原菌・鉄』を書くきっかけとなったニューギニアのヤリ族から受けた「なぜ白人がカーゴを全部もっているのか」という疑問に対して、答えていないのではないか、と辛口のコメントをしている。バーンスタインの本はこの疑問に答えるべく書かれた、いわばダイアモンド本の続きとみなしてもいいかもしれない。

まだ途中なので全体に対するコメントは控えるが、翻訳は概して読みやすいという印象。もっとも、amazonのレビューによるとそれなりの数の誤訳もあるらしいが…。

私は科学史については多少知識があるので、3章の「科学的合理主義」は「おや?」と思うような解説がいくつか目についた。本筋には影響しない小さな瑕疵なのだが、一応記しておく。

コペルニクスのモデルはあまりに複雑なため、実際天文学史の著作の多くでは細かく説明されていない。結局、コペルニクスのモデルもプトレマイオスのそれと同じく、どのような観測事例でもなんとか説明できてしまうので、反証がほとんど不可能だという欠陥をもつことになった。

これは大事な点だ。科学的なモデルは、反証可能でなければならないのである。そのモデルと矛盾するような観察例を容易に想像できなくてはならないのだ。プトレマイオスのモデルも、コペルニクスのモデルも、この基準からいけば落第だった。主軌道・周転円の入り乱れたこれらのモデルは、新しいデータが出てくるたびに調節可能だった pp.178-179

プトレマイオスにしろコペルニクスにしろ、彼らのモデルが反証可能性の基準をほとんど満たしてないという意見には、あまり賛成できない。まず、ケプラーは彼らのモデルから導かれる天文現象の予測がティコ・ブラーエの観測データとズレることで彼らのモデルを拒否したのだと思う。また、新しいデータがでてくるたびに調節可能、でないような科学の仮説というのはそもそもありうるのだろうか。たしかに、デュエムクワインのテーゼを引き合いにだして決定実験なんてありえない、と言い切るのは過激かもしれないが、それでも彼らのモデルがとりわけ反証可能性の基準を満たさない、と言うのはどうかと思う。

より細かな疑問点は以下。

  • アリスタルコスと並んでアポロニウスが地動説を支持していたと書いているが(p.171)、ぺルガのアポロニウスは従円-周転円モデルの考案者なので、天動説を支持してたと思う。
  • ティコ・ブラーエについて「水星と金星は太陽の周りを回っているが、他の惑星は地球の周りを回っているという説を唱えた」と書いているが(p.192)、太陽が地球の周りを回り惑星はすべて太陽の周りを回る、の間違いだと思う。
  • ニュートンを訪問するまで、ハレーはプトレマイオスにしたがって惑星軌道を円だと思っていた、とある(p.211)。信じがたいのだが、これは本当だろうか?

 

*1:以下、ページ数は文庫版に依拠している。

京大生の放蕩

以前、山田晶アウグスティヌス講話』という本を読んだときに印象的だった箇所がある。アウグスティヌスカルタゴに留学したときに放蕩に目覚めてしまったという話を紹介するくだりで、山田先生によれば、これは京都大学に合格して京都に移ってきた若い学生が誘惑に負けてしまったようなものだ、と(文庫版p.25)。

最近、井上章一の本を読んでいたら、少し前までの京都は東京や大阪と並んで淫靡な街として知られていたのだ、と論じていて、その際にこんな話を紹介している。1897年に京都帝国大学が開校したとき、初代総長は入学式で新入生たちに京都には気を付けろ、誘惑の多い土地だが負けるなよ、と告げたのだとか*1。この話を読んで、山田先生の喩えが何となく説得力あるような気がしてきた。

*1:『京都ぎらい 官能篇』p. 96

秘密情報機関員

クリステヴァは出身国のブルガリア共産主義だった時代に秘密情報機関員だった、という噂が流れている。

一応本人は否定しているみたいだし、本当かどうかはまだ分からない。けど、本当だったとしても驚きではないかな。『知の欺瞞』の序文によると、彼女は『知の欺瞞』を評して、アメリカの反フランス的な経済・外交運動の一環だという人身攻撃に打ってでたという話なので、イデオロギー色の強そうな人だなぁというのが元からの印象だったし、『中国の女たち』に対する山形浩生のレビューなんかを見ると…。長いけど引用しておく*1

クリステヴァ中国共産党の手配で、文革末期の1974年に中国を二週間ほど訪れた。そのときの感想文が本書。二週間のパック旅行(それもかなり駆け足で各地をまわっている)ではろくなものが見られなかったようだ。話を聞いた相手はすべて、共産党の(当時の)公式見解しか語っていない。それでも分量が足りず、半分以上はマルセル・グラネの受け売りで昔の中国における女性の話をしたり、共産党初期の女性党員の話をしたりだが、いずれも聞きかじりレベル。
そして最終的には、共産革命が中国古来の男性重視家父長制を打ち破ろうとしていたとか、文革で女性の地位はかつてないほど向上とか、紅衛兵たちは親たちの劉少奇的な反動主義を打ち破ってさらに前進しようとしているとか、林彪がのさばっていたらひどいことになったとか、共産党プロパガンダをそのまま繰り返し、「中国においては《神》のない、また《男》のない社会主義を目指す道が選ばれている」などと結論づける。
要するに、小難しい言葉で中国と文革の翼賛をやっているだけなのだ。かつて日本の一九八〇年代末のニューアカデミズムはそれを見抜けず、本書を「異邦の女のまなざし」などと持ち上げていたけれど、いま読むとひたすら悲しく情けないだけの無内容な本。

ゲーデルの定理(5)

不完全性定理」というときの「完全性」の意味に関して。

最後に、公理系は完全であるかと言う問題がある。すなわち、公理系のすべてのモデルでなりたつ命題は、公理系から結果として証明されるか、という問題である。再びゲーデルは、相応に豊富な任意の公理系が、完全ではあり得ないことを示している。*1

赤字部分は奇妙だと思われる。任意の文集合をΣ、Σがすべて成り立つモデルの集合をMod(Σ)、Mod(Σ)に属するすべてのモデルでなりたつ文の集合をTh(Mod(Σ))、Σの演繹的閉包をCn(Σ)と書くとすると

  • Th(Mod(Σ)) = Cn(Σ)

は一階述語論理の強完全性定理から証明できそうだから。

理論(ないし公理系)が完全かどうかというときに問題なのは、任意の文σについて、σないし¬σが当該の理論に入ってるかどうか、ということだと思う。ただし、完全性だけではあまり興味深い特徴にはならない。矛盾した理論は定義上完全になってしまうし、真の算術のように再帰的でない仕方で理論を指示してしまえば定義上完全になる。無矛盾で再帰的という条件を満たした上で完全かどうか、というのが理論の評価ポイントとなるのだろう。

*1:ハーツホーン『幾何学I』p.83

『ローカル女子の遠吠え』でいく静岡旅行

『ローカル女子の遠吠え』という四コマギャグマンガがある。このマンガは静岡のローカルネタを(自虐も含みながら*1)簡潔に、そして県外の人間にもわかりやすく伝えていて、とても面白い。女の子が可愛いだけのありきたりな四コマ漫画とは一線を画す、傑作だと思う(言い過ぎか?)。

私(東京在住)はこれまで伊豆を除くと静岡をほとんど旅行したことがなかったのだが、いい機会だと思って、このマンガをネタにして静岡を三泊四日ほど旅行してみた。適当にプランを組んだにしては結構楽しかった。

備忘録を兼ねたメモを以下に書いたので、興味を持った方は参考までにどうぞ。「委員長」(りん子さん)に引率されているような気分になるかも(ならない)。ネタバレを含むので未読の方は自己責任で。

*1:「しぞーか愛が止まらない、のぞみも停まらない」とか。

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ジジェクのチャーチル論

チャーチルの有名なパラドックス…民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という論理に基づいている。その第一前提は、「ありとあらゆるシステム」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく、付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。*1 

何を言ってるのか理解できないのだが、そもそもの元凶はチャーチルの発言を紹介するやり方にあるのではないかと思う。赤字部分の原文は以下。

"It is true that democracy is the worst of all possible systems; the problem is that no other system would be better." 

引用符つきになっているが、これは実際にチャーチルが言ったことの正確な引用ではないと思われる。 チャーチルは次のように言った。

Many forms of Gov­ern­ment have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pre­tends that democ­ra­cy is per­fect or all-wise. Indeed it has been said that democ­ra­cy is the worst form of Gov­ern­ment except for all those oth­er forms that have been tried from time to time.…*2 

「民主主義は最悪の政治形態である、これまで時折試みられてきた他のすべての政治形態を除けば」。これなら私でも理解できる。民主主義が完璧だとはだれも思っていないし、ひどい政治形態ではあるのだが、これまで試みられてきた他の政治形態はもっとひどいのだから、民主主義で我慢するほかない。民主主義よりよい政治形態がたくさんあり「うる」けど、そんな政治形態を我々は未だ知らない、といったところか。凝った表現だが、別にパラドクスでも何でもないと思う。

*1:『斜めから見る』pp.62-63, cf. 『イデオロギーの崇高な対象』pp.13-14

*2:"Democracy is the worst form of Government..." - Richard M. Langworth