Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

『言語を生み出す本能』を読み返す

スティーブン・ピンカーの名著『言語を生み出す本能』をひさかたぶりに読み返してみた。以前読んだときよりも知識がついたおかげか、前はほとんど流し読みしていたような箇所にも目がいくようになり、あらためて情報量の多い本だなと思った。

しかし、本書の出版は1994年であり、2017年現在からするといくぶん古い本であるのは確かである。この間、ほかの人々が本書についてどんなことを言ってきたのだろう、というのも気になる。批判的な論者として、日本でいちばん知られているのはトマセロかもしれない。トマセロはずばり "Language is Not an instinct" という書評論文を書いている。これは日本語で読める。

たしか、今年の『日経サイエンス』でもチョムスキー的な生得説を批判するトマセロの論文が載っていたと思う。リンクを貼ったこの書評論文と内容的に重なるところもあるが、両方読んでみるといいかもしれない。

ちなみに、トマセロは、言語学者の大多数はチョムスキーの普遍文法なんてものの存在を信じていないんだ、と口を酸っぱくして強調してる。これはたぶん本当なのだと思うが、実のところまだ確信を持てないでいる。前に知り合いから「言語学者のほとんどはチョムスキアンですよ」と言われたことがあるからだ。もっとも、そう言ってくれた私の知り合いは、周囲がチョムスキアンばかりの牙城で過ごした人だから単にバイアスがかかっているだけなのかもしれないが。

個人的には、ピンカーがトマセロに何か言い返してる文章があれば読みたいと思ってるのだが、見つけられないでいる。比較的最近の文章ではこんなのを見つけた。

ざっと眺めた印象では、アンチ・チョムスキアンなんて眼中になさそうである。

The misconception that Chomsky represents the dominant view comes from the fact that the opposition is divided into many approaches and factions, so there’s no single figure that can be identified with an alternative

チョムスキー的生得説のマトモな代案なんてないんだ、という感じだろうか。まぁ仮に生得説が間違っていたとしても、本書が扱ってる話題は多様なので、本自体の価値は大して減じないだろうとは思う。

他の話題として同じくらい注目を集めたのはサピア=ウォーフ説をボロカスに貶した第3章かもしれない。この本が出た時点ではサピア=ウォーフ説の人気はほぼ地に落ちていたので、ダメ押しのようなものだったのかもしれないが、それでもサピア=ウォーフ説には批判があるよ、というときに本書は言及される。例えば、飯田隆言語哲学大全』の4巻とかソーカル&ブリクモンの『知の欺瞞』なんかでそういう箇所をみかけた気がする。

ただし、サピア=ウォーフ説はその後ちょっとしたリバイバルを迎えていて、言語が思考に影響を与えるというアイデア自体はもっと丁寧に調べなきゃいけない、という雰囲気が形成されている。この辺の事情を知るには、今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書)が手ごろでよかった。もちろん、ピンカーも黙っていないわけで、『思考する言語』で新たなコメントを加えている。要点としては、強いサピア=ウォーフ説と弱いサピア=ウォーフ説を分ければ、『言語を生み出す本能』の批判自体は生き残るんだ、という感じだろうか。弱いサピア=ウォーフ説にもそれなりに興味深いところがあるので、ちょっと冷淡すぎんよという気もするが、私自身は基本的にピンカーの応答は正しいと思う。

ところで、あらためて本書を読み返したわけだが、原著ではなく邦訳で読み返したので、いくつか誤訳っぽい箇所にも気づいた。2chでもいくつか指摘されていたようだが、やはり一番残念なのは次の箇所だろう。日本人がl, rの区別をできないという脈絡で、山梨先生が 

In Japan, we have been very interested in Clinton's erection.

と言ってピンカーが爆笑したという箇所なのだが、邦訳では「クリントンが当選したのは、私たち日本人には非常に気にかかることでしてね」となっている(p.235)。それは山梨先生が言おうとしたことではあるが、文字通りに言ったことではない。あと、下巻の、マキャベリ的知性の進化を説明してる箇所でちょっと変な訳になってたりもする(p.202)。もっと細かなところでは、「語用論」が「用語論」になってるとか(p.309)、「統率」と訳すべき箇所が「統御」になってる(p.141)などがある。とはいえ、全体としてはやはり読みやすい本に仕上がってるので、ほとんど問題にならないと思う。

最後に。本書Language Instinctは2007年くらいに増補版が出ていて、これには、ピンカーによる読書案内とかPostscriptがついている。ファンの人は要チェック(?)かもしれない。後記は章ごとにより新しい研究についての情報を紹介するという感じ。サピア=ウォーフ説であれば、今さっき書いたような話が、生得説との関連では、FOXP2みたいな遺伝子が具体的に見つかったよ、とか、エヴェレットによるピラハ族の研究とかも紹介されてる。