Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

サイリス

英国観念論の哲学者として有名なジョージ・バークリーは、晩年、タール水なるものを世の中に広めようとした。タール水とは、松材を乾留してとるタールと水からつくられる水溶液で、アメリカの民間療法によれば、ほとんどすべての病に効くという。多少の殺菌作用があるらしいが、いまでは使われていない*1

バークリーはどういうわけか、タール水に夢中になり、『サイリス』という著作でタール水の効用を哲学的に擁護しようとしたらしい。ちなみに、題名のSirisはナイル川の別名であり、ギリシャ語では連鎖を意味する。「タール水の効能は、ナイル川のように秘密の隠された源から流れ出し、無数の水路へと分岐して、いたるところに健康と安らぎをもたらす」*2

私はこのマイナーな著作を、藤沢『プラトンの哲学』で引用されている文章から知った。藤沢によると、バークリーはプラトンイデア論について次のように書いた。

アリストテレスとその徒たちは、プラトンイデアを奇怪な仕方で表示したし、またプラトン自身の学派にも、イデアについてきわめて奇妙なことを語った人たちがいる。しかし、もしかの哲学者(プラトン)が、ただ読まれるだけでなく注意深く研究されるならば、そしてプラトンが彼自身の解釈者とされるならば、私は信じる、いま彼に向けられている偏見はすぐにもなくなってしまうだろうと。p.18

ここまでプラトンを賞賛しているというのは、かなり意外な気がする。

*1:ウォーバートン『若い読者のための哲学史』p.110f

*2:冨田『観念論の教室』p.41f

傍観者効果

帰宅途中に、道端で倒れている人を見かけた。すでに周囲にいたひとが声をかけて介抱していたのでそのまま通り過ぎてしまったのだが、そのとき私の中で、心理学で学んだ傍観者効果の話を連想した。困った人がいるとき、周囲に人が多くいるほど誰も助けない、というあの話だ。

周囲に人がいるほど責任感が拡散してしまうのだろうというのは理解しやすい。しかし、困った人の立場からすれば、べつにみんなに助けてもらう必要はなくて、誰かひとりにさえ助けてもらえればよい、ということが多いだろう。そうすると、周囲にいる人が多いほど、一人一人がその人を助ける確率は下がるとしても、人数が多くなればその効果は相殺されそうな気もしてくる。傍観者効果のはなしが教えてくれるのは、そんな風な相殺は起きない、ということだ*1

適当に数学的なモデルを考えてみる。周囲にいる人がn人のとき、各人が困った人を助けない確率は、p(n) という関数で一様に表せるとする。p(n) は増加関数で、定義域は1以上、値域は(0, 1) 区間。すると、周囲にn人いるときに誰も助けない確率は、p(n) のn乗で表せる。さて、傍観者効果の話の教訓は、p(n) のn乗もnが(ある程度大きければ)増加関数となり、1に収束する、ということだと思われる。例えば、p(n) = n/(n+1) としよう。この関数は n → ∞で1に収束する。んで、p(n) のn乗は、n = 1 で1/2, n = 2で4/9, n = 3で9/16, n = 4で16/25・・・という具合になる。つまり、二人のときに最小となり、そのあとは増加していくのだろう。かなしいなぁ。

*1:アイゼンク『マインド・ウオッチング』p.31

確実性と真理

自然科学が特殊な歴史的文脈に相関した相対的な知であるということは、科学史の専門家がくりかえし確認してきたことだ。ヒトは自然科学以外の真理の体系を保有しうるし、現に保有してきた。自然科学の見地から見ると「神話」でしかない、世界についての説明が、ある人々にとっては真理でありうる。例えば、仏教徒にとっては輪廻転生や因果応報は真理である。だが、ここで注目すべきはこのことではなく、自然科学の次のような特徴である。すなわち、自然科学は、厳密に言えば、真理を表現する命題の集合ではないということ、これである。それは、仮説の集合なのだ。だから、自然科学は、すでに真理に到達しているという充足性によって定義されているのではなく、いまだに真理に到達してはいないという否定性によって、つまり真の普遍性との落差によってこそ特徴づけられていると言うべきであろう。それゆえ、われわれは、自然科学上の命題をまさに、自然科学の名において否定し、拒否することができるのである。たとえば、ニュートン力学の一般性を否定したのは、自然科学の外部にある「真理」ではなく、それ自身、自然科学に属する別の論理(仮説)、つまり相対性理論だったのだ*1

前半では、自然科学の真理はせいぜいある観点に相対的でしかない、という相対主義が述べられており、後半では、自然科学の仮説は厳密には真理ではない、という見解が述べられている。しかし、これらの見解に同意する科学哲学者はまずいないのではないかと思う。

前者に関してだが、たいていの科学哲学者は、科学者と同様に、自然科学の仮説は端的に真か偽のどちらかだと思っている。近代科学は歴史的には西欧文化を背景に誕生したのかもしれないが、そのことは、自然科学の仮説はせいぜい近代西欧的な観点からのみ真である、という相対主義は帰結しない。

後半に関しては、まず、確実性(certainty)と真理(truth)を区別したい。この二つは明らかに異なる。確実性と真理が同じなら、不確実性は偽を含意する。しかし、例えば、地球以外の惑星に生命がいるかどうかは誰も知らないし、確実ではないが、そのことは地球以外の惑星に生命がいるという仮説が偽であることを含意しない*2。さて、確実性と真理を区別するなら、次のように考える余地は十分にある。すなわち、科学者は自然科学の仮説は間違っているかもしれないと受け入れるが、そのことは仮説が真でない(偽である)ことを含意しない。自然科学が受け入れるのは可謬主義(fallibilism)であって、これは近代西欧が歴史的に生み出したメンタリティかもしれないが、可謬主義は相対主義でも不可知論でも錯誤説でもない。科学者は真理を目指すし、自然科学の仮説が近似的にすら真でなかったら科学の成功は奇跡になってしまう。また、可謬主義的なメンタリティを持たない人であっても、自然科学の仮説が近似的に真であり実用的なレベルでの成功を収めているなら、いわば上澄みの成果だけでも享受できるので、自然科学は世界的に普及しうるし、どんな世界宗教よりも普遍的でありうる。

*1:『文明の内なる衝突』p.108

*2:Williamson, Tetralogue, chap. 2

Socratica

新年早々に教育系のYouTubeチャンネルで結構よさげなものを見つけたので、紹介してみる。英語だけど、一つ一つの動画は短いし字幕を見ながらなら十分対処できる。かなり入門的な内容なので、ある程度知ってる人には何の意味もないだろうけど、入口で躓く人にはとても助けになるのではないだろうか。個人的には、抽象代数とか天文学を担当している美人なお姉さんの講義が特によいと思った。演技が過剰な気もするけど…

関連記事

ワニのジレンマ

河岸で人食いワニが子供を人質にとり、子供の親に「自分がこれから何をするか言い当てたら子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、親が「あなたはその子を食うでしょう」といったらどうなるか。

これは自己言及のパラドクスの一種としてよく知られている。wikipediaにはルイス・キャロルが発表したと書かれているが、田中一之『山の上のロジック学園』ではこれを古代ストア派のクリュシッポス作だとしている(p.59)。

調べてみたところ、2世紀頃の風刺作家ルキアノスが、このジレンマをクリュシッポスに帰している文章を書いていることがわかった。『ルキアノス全集3食客』に「哲学諸派の競売」という短編がある。この短編は、著名な哲学者たちが奴隷として競売にかけられ、買い手の関心を引くべく自分たちの博識やら機知を披露させられる、という恐ろしい話なのだが、そこでクリュシッポスがワニのジレンマの話をしている(p.50)。

クリュシッポス さあ考えてくれ。君には子供がいるかね。

買い手 いったい何だ?

クリュシッポス その君の子が河のほとりにいるところを鰐が見つけてこれを捕まえ、君が本当のところをいい当てれば−というのは子供の返還について鰐がどう考えているのかということだが−子供を返すと約束した場合、君は鰐の意中をどう忖度するかね。

買い手 答えにくい質問だな。どちらをよしとして返答したものか迷うからな。いやお願いだ、答えを明かしてうちの子供を救ってくれ、鰐が子供を飲み込む前に。

残念ながら、クリュシッポスはこの依頼をスルーして別の話を初めてしまう。しかし、この自己言及のパラドクスやその後に出てくるパズル(エレクトラなど)は、一般にはメガラ派のエウブリデスに帰属され、むしろ二値原理を支持するクリュシッポスには都合の悪い例ばかりなのではないか、という気がするのだが…。まぁそんなことを気にしても仕方がないのか。

ルキアノスの短編はルネサンス時代に蘇り、15世紀のローマやヴェネツィア、ミラノの各地で翻訳出版され、ラブレーエラスムスに影響を与えたとされる(訳者解説を参照)。なお、ワニのジレンマと類似したパラドクスとして、17世紀初頭に書かれた『ドン・キホーテ』に出てくる絞首刑のパラドクスがある*1

ある国の法律が、その都市に入りたいと望む者は全員、そこでの要件が何であるかを述べるよう求められる、と定めている。正直に答えたものは、その年に安全に入り、安全に立ち去ることが許可される。偽って答えたものは、絞首刑に処せられる。では、要件を尋ねられた時、「私は絞首刑になるためにやって来ました」と答えた旅行者には、一体何が起こっただろうか*2

セルバンテスは、ルキアノス経由でこの話を知ったのだろうか。それとも、同じようなパズルは中世後期にビュリダンあたりがすでに論じていて、知識人の間では広く知られていたのだろうか。

関連記事

*1:追記:出典箇所を調べてみた。岩波文庫ドン・キホーテ 後篇(三)』第51章pp.33-38

*2:セインズブリー『パラドックスの哲学』p.299

ゴットの推定

Gottの推定を解説する上の動画をみて、「これどっかで読んだことあるような」と思い、しばらく本棚を探したところ、三浦俊彦『論理パラドクス 勝ち残り編』で「デルタt論法」という名称で紹介されているのを見つけた(pp.203-205)。

そして、原論文はこちら:

1993年のNatureに掲載された論文とのこと。最初だけ少し読んでみたところ、築8年のベルリンの壁をみて、いつ壊れるかを推定するという話は冒頭に出てくるのだね。

ニューカムの問題

ニューカムの問題(ニューカムのパラドクス)は、リバーモア放射線研究所の物理学者であるウィリアム・ニューカムによって考案され、ロバート・ノージックとマーティン・ガードナーの紹介によって有名になった、とされる。しかし、考案者のニューカム博士という人物は何者なのだろうか。

ウィリアム・ニューカムが何者かはわからない。そもそも、このような名前の人物は実在していなかったかもしれない。というより、「ウィリアム・ニューカム」は、実は、政治哲学者のロバート・ノージックの仮名のようなものである可能性が高い。というのも、ニューカムのパラドクスを最初に記したのは、ノージックで、彼は、その際、「出典」として虚構の文献を挙げているのだ。*1

これは本当だろうか。wikipediaにはいちおうニューカムの記事が作られているのだが、

1999年5月に死んだとか、曽祖父は著名な天文学者だとか書かれているが、これも全部でっちあげなのだろうか。

ノージックの元の論文は、ヘンペルの献呈論文集に収められているが、

論文末尾には次のような注意書きが添えられている。

It is not clear that I am entitled to present this paper. For the problem of choice which concerns me was constructed by someone else, and I am not satisfied with my attempts to work through the problem. But since I believe that tho problem will interest and intrigue Peter Hempel and his many friends, and since its publication may call forth a sotution which will enable me to stop returning, periodically, to it, here it is. It was constructed by a physicist, Dr. William Newcomb, of the Livermore Radiation Laboratories in California. I first heard the problem, in 1963, from his friend Professor Martin David Kruskal of the Princeton University Depaftment of Astrophysical sciences. I have benefitted from discussions, in 1963, with William Newcomb, Martin David Kruskal, and Paul Benacerraf. since then, on and off, I have discussed the problem with many other friends whose attempts to grapple with it have encouraged me to publish my own. It is a beautiful problem. I wish it were mine. 

この文章を見る限りでは、虚構かどうか以前に何らかの文献を参照している感じがしないのだが…。

*1:大澤真幸『思考術』p.128n6