「分析哲学」は現代英米圏の哲学の通称として使われており、それゆえに分析哲学はイギリスの古典経験論の後継とみなされがちである。しかし、そういう通念は素朴であるように思える。そう思う理由を記しておく。
まず、現代英米圏の哲学は多様化を極めており、一口に英米哲学とか分析哲学といっても、様々な考え方が提示され、議論されている。古典経験論に深く影響されているような立場を採る哲学者は多いが、反対する立場の哲学者もやはり多い。
20世紀後半のアメリカの哲学に大きく寄与した論理経験主義者たち、ナチスの迫害を逃れて亡命した人々である。論理経験主義はイギリス古典経験論と近い関係にあると言われるかもしれないが、それはA.J.エイヤーの場合であって、カルナップやライヘンバッハに関しては新カント派から強い影響を受けている。
初期の分析哲学を代表するイギリスの哲学者ラッセルについてはどうか。『哲学入門』(ちくま学芸文庫)の訳者解説は、ラッセルをイギリス経験論の系譜に位置づけるのが適切かどうかという問題を扱っている(pp.261-267)。確かに、経験論の系譜に連ねる理由として、以下のようなものが考えられる。
- センスデータは観念と似ている
- 新ヘーゲル主義との格闘によって自分の哲学を形成したことは、大陸合理論vsイギリス経験論という構図と重ね合わせたくなる
しかし他方で、ラッセルを経験論の系譜に連ねるのが適切でない理由もたくさんある。
- センスデータは心的対象ではないとされている。
- 普遍の存在にコミットしている
- 新ヘーゲル主義から脱する上で役割を果たしたのは、ライプニッツ研究であった
- 『哲学入門』を執筆している時期に、ラッセルはプラトンを集中的に読んでいる
この訳者解説の著者は、ラッセルの哲学的好みは、圧倒的に合理論寄りであると結論している。
近世哲学の専門家にはラッセルはどう見えるのだろうか。野田又夫はラッセル『私の哲学の発展』の訳者解説で、本書と似た書物を過去に求めるとすればデカルトの『方法序説』がそれだろうと述べ、「訳者は昨年この本を読んで異常な同感を覚え、たまたま求められて喜んでこれを訳した」と絶賛している。野田はデカルトとラッセルの間に見出される共通点として、以下の4点を挙げている*1。
「哲学そのものの性格から言ってもラッセルはデカルトと問題を共有している。青年時代にデカルトを解析幾何学の創始者としてしかしらなかったとき、すでに哲学者デカルトの問題に出会っていたのだ、とみずからのべているとおりである」*2