Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

メディアはメッセージである

「メディアはメッセージである」というマクルーハンの格言は、

  • なにかを情報を与える意図(情報意図)
  • その情報意図を相手に読み取らせるという伝達意図

という重要な区別を無視している、という光学さんの記事を読んだ。

この意見には同感なのだが、同時に、メディア論に関心のある社会学者とかは、たとえこういう区別について聞かされたとしても関心を示さないのではないか、という気もする。というのは、(これは勝手な偏見だが)メディア論という分野自体が、マスメディアによって人々の信念がどのように影響されるのか、という問題意識によって形成されていると思われるからだ。そういう問題意識から出発していると考えると、上の区別が軽視されてしまうのは理解できないことではない(同意はしないけど)。

例えば、マスメディアを都合よく利用する独裁者は、一般大衆に伝達意図を読み取らせることなく、何らかの情報を吹き込むかもしれない。そのようにして情報が与えられたとしても、ふつうの言語哲学者はコミュニケーションによってその情報が与えられたとは言わないだろうけれども、メディア論の研究者は、そのような形で伝えられた情報も重要だとみなすかもしれない。

あるいは、ひょっとすると、メッセージの伝達者が(情報意図であれ伝達意図であれ)どのような意図をもってそのメッセージを発したのか、ということすら社会学者にとってはどうでもいいのかもしれない。例えば、ある種の発言を「差別的」として糾弾するとき、発話者には差別的なことを伝えるという意図はまったくなかったという場合がある。単に聞き手が差別的だと受け取っただけだ。しかし、そういう場合でも、当の発話は差別的な内容をもち、それが伝えられた、とか社会学者なら言うかもしれない。