- 作者: 竹田青嗣,西研
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2004/06/24
- メディア: 単行本
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分析哲学に対する批判が書いてあるということで少し読んでみたのだが、ここまで過激な罵詈雑言を聞かされるとは想像していなかった。以前コメントした様相論理の本はあわれみを感じるレベルの酷さだったが、この本の分析哲学に対するスタンスはさすがに引く。「きわめて難解な言葉で形式論理を使って、延々とパズル解きをしている」(p.208)くらいならありふれた評価として聞き流せるのだが、そんなものでは済まなかった。
ラッセルの記述理論について「きわめて姑息な手段でもって、問題をなかったことにしようとしている」(p.207)。ラッセルは「論理学の分野ではしっかりしたことを書いているのかと思うとこれがそうでもない」(p.208)。ラッセルのパラドクスとか分岐タイプ理論とかはまったく評価されないんですか?
規則のパラドクスに関して、クリプキは「「言語にはこんな不思議な謎があるぞ」と言うばかりで、その謎を解明して始末してしまわない」(p.199)。懐疑的解決の議論はどこへ行った…。
単純な事実誤認も多い。ラッセルを「論理実証主義の出発点」(p.102)、「論理実証主義の父」(p.185)と呼んでいたり、言語論的転回(linguistic turn)を「言語論的展開」(p.220)と表記したり。あるいは、
カルナップは「正しい知識や科学はかくかくしかじかのもので、それ以外は疑似科学だ」というふうにして、科学と言いうるものとそうでないものを峻別しようとしました。そこにはナチスのような非合理主義に対する対抗という意味もあった p.183
「非合理主義」ということでカルナップはハイデガーの実存主義やベルクソンの直観の形而上学を念頭においていたと思う。「ナチスのような」という限定を付ける理由が分からない。というか、ナチスが政権をとったのは30年代だと思うのだが…。
分析哲学では「もっとも中心的」としているウィトゲンシュタインに関しても解説はお粗末で、例えば、以下の文章にあるように、『論考』でいう事実Tatsacheと事態Sachverhaltの区別もついていない。
ウィトゲンシュタインは、まず、世界は「事実の総体」であって「事物の総体」ではない、と言います。事実とは、実現可能なものも含めて可能な事実も事実だと言うのですが、つまり事態の集まりですね。p.185
当然のごとく、『論考』を実証主義的に読むという安直な解釈をとっている。以下をみよ。
有意味に語りうる言葉とは何かを考えてみると、最終的には「観察して真偽が確かめられるもの」ということになるはずだ、とウィトゲンシュタインは考えた。p.186
クワインの紹介もかなり粗雑である。
常識的に言えば、クワインの主張は妥当なものです。厳密論理的なものと経験的なものは、それほど明確にわけることができない。じつは経験的なものが確かめられていって、ほとんど間違いというのがないという仕方で論理性として成立する、という言い方です。p.221
これではミルの実証主義とほとんど変わらなくなってしまうのではないか。また
トートロジーという形での分析的真理はあるレベルでは言えそう p.220
これはかなりアンフェアに聞こえる。クワインは量子論の登場によって排中律が疑われたことがあるという例を挙げたのだが、それにも言及していない。
そもそも著者たち自身の哲学がかなり素朴にみえるのだ。例えば、数学についての見解は一貫すらしていないようにみえる。「三角形の内角の和が180度であること」を確かめるには「図を思い浮かべて直観すればいい」とか、描かれた三角形を通して「三角形の本質」が直観されており、幾何学ではすべて本質直観が根拠になる、とか(p.151)。ここでは数学的対象の実在論が提示されているようにみえる。しかし、別の箇所では
あらかじめ、約束をつくっておいて、その約束から絶対はずれないように進むわけですから…ある意味、完全なトートロジーの体系ですね。p.191
という規約主義のような見解も述べられる。
こんなところか。これだけ書いておいて今更だが、大庭健『はじめての分析哲学』冒頭のコメントを思い出したよ。
現代哲学「早わかり」ふうの解説本は、「ほんとにアンタは、自分で、ヴィトゲンシュタインあるいはクワイン、ローティを読んで、こう書いたの?」と聞き返すのもバカバカしい代物が多すぎる。p.iii