Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

CARNIVAL

シナリオライター瀬戸口廉也氏のデビュー作であるこのゲームには、父親からの性的暴力のせいで心が歪んでしまったヒロインが登場する。物語は全三部構成で、第三部「トロイメライ」はヒロインのモノローグになっていて、複雑な内面の動きが淡々と語られる*1

ヒロインが中学三年生のときのクリスマス、仲の良い友達に連れられてカトリックの教会に行く場面がある。この友達は両親が信者なので、生まれたときに洗礼を受けてはいるが、実際には信仰は既に失っている。ミサの後のパーティで、ヒロインが「つまりキリスト教ってどういうもの?」と素朴に質問する。ここのくだりは対話篇みたいで面白い。まず、友達の答えは要約すると大体こういう感じだ。

道徳のネモトを神様に結びつけたものだと思う。他人を殺してやりたいとか死んでしまえばいいのに、と思うことは誰にでもある。思っただけでは逮捕されないが、キリスト教では罪になる。罪の規準は、周りの人の迷惑になるかならないか、という点にあるのではなく、神の意志に背いていないかという点におかれている。要するに、善悪の規準は神様の中に全部あって、私たちはそれに従う。しかし、人間は馬鹿だから間違えてしまう。それでも、懺悔すれば神様は赦してくれる。

「キリスト教が嫌いなんだね?」とヒロインが聞くと、善悪を決められない人にとっては都合がいい考えだと思う、私には必要ないし、赦しはいらない、と答える。

そこに、彼女らの会話を聞いていた神父が登場する。友達の子の洗礼名を考えたのもこの神父で、彼女の信仰が揺らいでいく過程を全部見ている。彼は大体こういう風に答える。

彼女が言ったことは、内容自体は間違ってないが解釈がよくない。完全なる神の前では私たちは全て罪人である。これは必然的な事態で、生きていくためには不本意ながらよくないことをしてしまうことがある。このような事態が良心の呵責をうむ。呵責はたとえ法律で罰をうけても消えないかもしれない。法律違反でないような何気ないことでも、苦しみを感じることもある。この苦しみが罰であり、神によってしかその苦しみは解放されない。

この主張に対して友達の子は、人間はそこまで無力なのかとくってかかる。それに対する神父の応答は、ジンメルの「一般に、青年の主張するところは正しくない。しかし、それを彼らが主張するということは正しい」*2という警句を思い出させる。二人はかみ合っていない。

ここでヒロインは「どんなに大きな罪でも赦されるのか」と質問をする。神父は、神に赦せない罪など存在しないと言う。勿論何でもかんでも赦してしまうわけではないだろうが。神はそこまで気前よくある必要はない*3
神父の見解に対するヒロインの反応は、簡単に纏めてよいものだとは思えないが、基本的には次のような直観に基づいている。結局のところ、それは虫のいい考えではないか、私の罪の大きさは私が知っているのであって、神にとっては些細なものかもしれない、赦されてはいけない苦しみがあるのではないか…。
重要だと思われるのは、彼女は苦難に直面して信仰が揺らいでいるわけではないということである。特別な信仰など最初からなかった。出発点はむしろ、世界は私たちを愛していないとか、神は私たちに無関心だとかそういう直観だと思う。ゲームが終わりでも、信仰が芽生えたとかそういう描写はない。

ゲームは一応のグッドエンディングを迎える。しかし後日談では…

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シューマン:ゲーテの「ファウスト」からの情景

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*1:有用なレビューとしては、http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/carnival.html がある。

*2:『日々の断想』110節

*3:cf.山田晶『アウグスティヌス講話』