Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ラッセルの自叙伝

マット・リドレーの『やわらかな遺伝子』を読んだのだが、ところどころで興味深い蘊蓄が披露されていてよかった。個人的に一番驚いたのは、刷り込みを発見したのはローレンツではないというくだりで、スポルディングという生物学者に触れた箇所である。

スポールディングについてはほとんど知られていないが、わずかに知られている事実がじつに珍奇だ。彼は、フランスのアヴィニョンで知り合ったジョン・スチュアート・ミルの紹介で、バートランド・ラッセルの兄の家庭教師になった。ラッセルの両親、アンバリー子爵夫妻は、肺病持ちのスポールディングが子どもをつくるのはまずいだろうと考えた。だが一方で、男としての自然な性欲を抑えるべきではないとも思い、そのジレンマを露骨な手段で解決することにした。アンバリー子爵夫人がみずから相手になったのだ。義務感に駆られてそうしていた夫人は一八七四年に亡くなり、一八七六年には夫も亡くなったが、子爵は生前、スポルディングバートランド・ラッセルの後見人のひとりに指名していた。しかし、亡き夫人とスポールディングの関係が明らかになり、仰天した高齢の祖父ラッセル伯爵が、すぐに幼いバートランドの後見人の地位を引き継いだ。

何だそれはたまげたなぁ、ということで、ラッセルの自伝を調べてみた。

ラッセル自叙伝〈第1〉1872年-1914年 (1968年)

ラッセル自叙伝〈第1〉1872年-1914年 (1968年)

 

冒頭の「幼年時代」の章にこの話は書かれているのだが、最初に読んだ時にはどうも話が違うのではないか、と疑ってしまった。おかしいと思って、原著でどう書かれているのかも調べてようやくわかったのだが、邦訳はこの箇所を完全に誤訳している。肺病にかかった人物をスポルディングではなくラッセルの兄と訳している上に、ラッセルの母親がスポルディングとlive withするのを許した、という箇所を「一緒に暮らすのを許した」と訳している……。

邦訳の質に疑問符がついてしまったのは残念だが、訳者があとがきに記している次のコメントは完璧に正しいと思う。

「普通の人には、とうてい口にすることも出来ないような恥ずかしいことでも、すこしも隠し立てすることなく、そのまま語られている」(p.298)

たとえば、思春期のときのことを振り返っている箇所を読んでみよう(pp. 39-40)。圧倒される。 

 性の事実をわたくしがはじめて知るようになったのは、十二歳の時であった。…

十五歳の時、ほとんどがまんが出来ないほどの強烈な性欲を感じ始めた。意識を集中して勉強している間も、絶えずペニスの勃起に悩まされた。そうして、自慰の習慣に陥った。…

毎日、女性の身体を見たいという欲望に長時間をついやした。そうして、いつも、女中たちが着物を着ているのを、窓からちらっとでも見ようとするのが常だった。しかしながらそれはいつでも不成功に終わった。

友のジミイとわたくしは、一冬、地下室をつくって遊んだ。それは、一人が四つん這いになって這ってゆく長いトンネルと6インチ立方の一つの部屋とから成り立っていた。わたくしはいつも、一人の女中をわたくしについて来るように誘ってこの地下室へ連れていった。そこで彼女に接吻をし、抱きしめた。一度は彼女に、わたくしと一緒に一夜を過ごさないかと言った。そのとき彼女は、そんなことをするくらいならむしろ死んだ方がましだと言った。わたくしはそれを信じた。彼女はまた驚きの表情をしめして、わたくしが善良なひとだと考えていたと言った。その結果、このことはこれ以上進展しなかった。