大澤はさまざまな箇所でクリプキの固有名論を魔改造して提示している。
例えば、木田元にしたがって事実存在と本質存在の差異を「xがある」と「xである」の違いとしてとらえた上で、「存在論的差異というと深遠にきこえるが、分析哲学でいえば固有名の反記述主義と並行的な関係にある」と言う*1。大澤によれば、「これは夏目漱石である」という指示は「これ」と指示された個体の性質を記述するものではない。それはただ、「夏目漱石」と名付けられた「これ」が存在していることのみを、「これ」の事実存在を指し示している。固有名と記述の間に代替可能性がないことは、事実存在が本質存在に還元できないことを含意する。
ハイデガーのことはよく分からないが、しかし、事実存在と本質存在の区別が「がある」と「である」の区別に相当するなら、それと並行的なのは反記述主義より、むしろ存在はレアールな述語じゃない(カント)とか、存在は二階の述語だ(フレーゲ)という話の方だと思う。記述主義はフレーゲ=ラッセル的見解とクリプキの本では言われるように、二つは別の話ではないか。あと、固有名って指示対象を欠くこともあるような。
反記述主義に関するコメントも首をかしげるものが多い。
クリプキのこの論考[『名指しと必然性』]があらがいようのない緻密さにおいて論証したことは、名前は何も意味しないということである。*2
名前が指示しているのは、あらゆる可能世界を貫通する同一性、つまり必然性である。*3
名前(固有名)が記述の束の省略ではないという主張から、名前は何も意味しないという主張は出てこないと思う。例えば、名前の意味は指示対象に尽きるという見解とも両立する。そして、名前が(たいていの)記述と違って固定的であるということの意味は、名前はどの世界でも同じ対象を指示するということ。