Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

確実性と真理

自然科学が特殊な歴史的文脈に相関した相対的な知であるということは、科学史の専門家がくりかえし確認してきたことだ。ヒトは自然科学以外の真理の体系を保有しうるし、現に保有してきた。自然科学の見地から見ると「神話」でしかない、世界についての説明が、ある人々にとっては真理でありうる。例えば、仏教徒にとっては輪廻転生や因果応報は真理である。だが、ここで注目すべきはこのことではなく、自然科学の次のような特徴である。すなわち、自然科学は、厳密に言えば、真理を表現する命題の集合ではないということ、これである。それは、仮説の集合なのだ。だから、自然科学は、すでに真理に到達しているという充足性によって定義されているのではなく、いまだに真理に到達してはいないという否定性によって、つまり真の普遍性との落差によってこそ特徴づけられていると言うべきであろう。それゆえ、われわれは、自然科学上の命題をまさに、自然科学の名において否定し、拒否することができるのである。たとえば、ニュートン力学の一般性を否定したのは、自然科学の外部にある「真理」ではなく、それ自身、自然科学に属する別の論理(仮説)、つまり相対性理論だったのだ*1

前半では、自然科学の真理はせいぜいある観点に相対的でしかない、という相対主義が述べられており、後半では、自然科学の仮説は厳密には真理ではない、という見解が述べられている。しかし、これらの見解に同意する科学哲学者はまずいないのではないかと思う。

前者に関してだが、たいていの科学哲学者は、科学者と同様に、自然科学の仮説は端的に真か偽のどちらかだと思っている。近代科学は歴史的には西欧文化を背景に誕生したのかもしれないが、そのことは、自然科学の仮説はせいぜい近代西欧的な観点からのみ真である、という相対主義は帰結しない。

後半に関しては、まず、確実性(certainty)と真理(truth)を区別したい。この二つは明らかに異なる。確実性と真理が同じなら、不確実性は偽を含意する。しかし、例えば、地球以外の惑星に生命がいるかどうかは誰も知らないし、確実ではないが、そのことは地球以外の惑星に生命がいるという仮説が偽であることを含意しない*2。さて、確実性と真理を区別するなら、次のように考える余地は十分にある。すなわち、科学者は自然科学の仮説は間違っているかもしれないと受け入れるが、そのことは仮説が真でない(偽である)ことを含意しない。自然科学が受け入れるのは可謬主義(fallibilism)であって、これは近代西欧が歴史的に生み出したメンタリティかもしれないが、可謬主義は相対主義でも不可知論でも錯誤説でもない。科学者は真理を目指すし、自然科学の仮説が近似的にすら真でなかったら科学の成功は奇跡になってしまう。また、可謬主義的なメンタリティを持たない人であっても、自然科学の仮説が近似的に真であり実用的なレベルでの成功を収めているなら、いわば上澄みの成果だけでも享受できるので、自然科学は世界的に普及しうるし、どんな世界宗教よりも普遍的でありうる。

*1:『文明の内なる衝突』p.108

*2:Williamson, Tetralogue, chap. 2