Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

「日本史のミカタ」のミカタ

日本史のミカタ (祥伝社新書)

日本史のミカタ (祥伝社新書)

 

 

東大史料編纂所本郷和人教授と日文研井上章一教授の対談本を読んだ。関東史観の本郷と京都史観の井上による東西対抗戦という触れ込みの本書。ただし、amazonのレビューでも言われているように、本郷が井上をかなり立てているので、井上教授が本郷教授をボコボコにしてるように見えるかもしれない。5歳年長の井上に気を使ったのかな、と思わなくもない。

著者たちが他のところで書いている持ちネタを披露してるのであまり得るところはなかった、という意見も聞く。私自身は井上の著書を幾らか読んでいるが、本郷の著書は読んだことがなかったので、色々参考になるところがあった。いくつか論点を拾って整理してみよう。 

日本人はいつから、日本という国を意識するようになったか(4章)

井上は、元寇の時点で日本人はそういう意識をすでにもっていた、という説をとる。ただし、もっと前(白村江の戦い)かもしれないとも示唆してるので(p.109)、元寇の時点が下限と解釈してよいだろう。井上が自説の証拠として、日本の在地領主で元側に寝返った者が一人もいなかったことを挙げる。

本郷は反論する。御家人たちに国を防衛したという意識があったのなら、戦後に領地をよこせと要求しただろうか。

井上は応答する。無欲なまま対外戦争に従軍するなんて近代の話ではないだろうか、近代だって、夫が戦士すれば妻はなんぼか要求するだろう。

食い下がる本郷。戦ったのは九州の武士だけで、司令官の北条時宗は鎌倉を動かなかったではないか。九州の武士たちは国を護るというより自分たちの土地を護るという意識だった。

応答する井上。確かにそういう意識もあったろうし、北条時宗が初期対応を誤っただろうけれど、その程度の人間が率いていたにも関わらず誰も日本列島を裏切らなかったところ日本国意識の目覚めを見出したい。

本郷は和田合戦や宝治合戦などの例を引いて、鎌倉時代の武士たちは縁戚関係を重んじており事情は九州の武士でも変わらないから、そう簡単に仲間を裏切れたはずがない、と指摘する。これに対し井上は、それならみんなでいっせいに元の側につくことだってできたのでは、と答える。

モンゴル人は顔つきも違うし、そもそも言語が違うから意思疎通ができないではないか、と本郷。しかし、言語の違いは問題ではないと切り返す井上。百年戦争の時代、ブルゴーニュ公はフランス王が嫌いだったという理由で言葉の違うイギリス王に付いたではないか。

コメント

素人考えだが、日本の在地領主が誰も寝返らなかったという事実はそんなに強力な証拠なのか疑問がわく。元側は使者を送ってきているくらいなので意思疎通がまったく不可能な相手ではなかったろうけど、使者を斬り殺してしまった後では、もはや「私たちは寝返るのでゆるしてください」なんて言える余地があったのか…。また、鎌倉方が動かなかったではないか、という点について、北条はそんなものだから、というのは応答になってるのかよく分からない。

ところで、それ以前に「そもそもなんでこんな問題を論じてるの?」 と根本的な疑問をもつ人もいるだろう。私もそう思わなくもないのだが、想像にかたくない背景事情がいくつかある。一つは権門体制論と東国国家論という対立。京都の朝廷と別に東にある程度独立した政権があったという見方をするなら、元寇の時点で日本は一つと言われても同意するのは難しかろう。なお、上には書かなかったが、本郷自身は秀吉による天下統一をもって日本という国の意識が固定し列島中に浸透していった、という立場のようだ(p.223)。

もう一つの背景事情は、ナショナリズムの解毒といったモチベーションかもしれない。国民国家なんて近代になって上からの強制によって成立した想像の共同体にすぎない、と考えたい人は、日本国意識の成立を通り昔へと遡らせることに反発を覚えるだろう。もっとも、ナショナリズムにいくらか擬似的に作り出された側面があるといっても、紐帯意識が自然に感じられるためには文化的な共通性とか歴史的な連続性なんかがある程度ないと成立しないだろう、と私は素朴に思ってしまうが。

日本における絶対王政はいつか(5章)

戦後の歴史学明治維新絶対王政とみなしてきたが、井上は室町幕府こそ絶対王政ではないか、と提案する(p.133)。明治維新に対応するのはむしろボナパルティズムである。ちなみに、江戸城無血開城をもって「明治維新フランス革命とくらべて犠牲者が少なかった平和な革命」と言われることがあるが、これは禁門の変で丸焼けになった京都や会津以北をないがしろにした言い草。西南戦争竹橋事件まで含めて考えれば、無血革命とはとてもいえない(pp.235-237)。

本郷は、足利義満日野富子が絶対王だといわれると強烈な違和感がある、と述べる。彼らのもとに国が一つにまとまっていたわけではないだろう、と(p.134)。井上は、ブルボン朝最盛期のルイ14世ですらフランス全土を制圧できなかった、と応じる。ベルサイユ宮殿を造って諸侯を集めて美女を見せ付けたのは目くらましでしかない、と。戦後史学は絶対王政の「絶対」という言葉にとらわれすぎている。

コメント

単に文脈が分かっていないだけなのかもしれないが、室町幕府絶対王政とみなそうという提案のポイントがよく分からなかった。マルクス主義の時代ではないのだから、無理に西洋史との平行関係を探す理由はない…などという意見を「日本に古代はない」という趣旨の本を書いた人にぶつけるのは釈迦に説法だろうけど。

というか、そもそもそんなに似ているのか、という疑問も湧く。貨幣経済の発達という世の流れに上手く乗ったこととか、文化芸術を保護したことが絶対王政の印なのか。ルイ14世ですらフランス全土を掌握できてなかったとか言われても、彼には何度も大規模な対外戦争をするぐらいの力があったと思う。絶対王政期のイギリス王やフランス王は王権神授説を信奉したり虐殺も厭わない暴君の側面をもっていて、それが主権のような概念の成立に繋がったのだと思う。

ただし、明治維新フランス革命ボナパルティズムの類比はけっこういいと私も思う。例えば、日本の廃仏毀釈とナポレオン軍によるカトリック教会の破壊行為とかは似たところがある。仏教とカトリックはどっちも守旧勢力の犬とみなされ嫌われていたんだろうね。

信長は朝廷を滅ぼそうとしていたか(6章)

本郷はそう考えているようだ(p.169)。皇室の存続がもっとも危ぶまれたのは足利義満の時代だという意見もあるが(p.167)、本郷は信長の時代が一番危なかったという立場をとる。「信長公記」によれば、安土城の天主は最上階で、天皇を迎えるための御殿はそれより下だった。しかも、信長は自身にかわる大石「梵山」をおいて、これを御神体としてあがめるよう領民と家臣に命じたとフロイスは報告している。信長は神になろうとしていたのではないか。pp.172-174

井上はそうかもしれないと言い、代わりに別の問題を提示する。かりに信長が長生きし、朝廷を潰そうと考えたとしても、本当に潰すことは「できた」だろうか。井上はできなかったのではないか、と推測する。朝廷はそんなに甘い組織ではない。実際、本書の中で井上は何度も朝廷のしたたかな生き残り戦略に触れている。本郷もこの点では井上に歩み寄ってる。

コメント

この話題に関して二人はほとんど対立していない。ただ、本郷の立場は最近の歴史学会では劣勢にたたされているようではある。信長はそれほどの革命児ではなかった、と。本郷はこういう傾向を苦々しく思っているようだ(p.174f)。私自身は、神田千里『織田信長』を読んで「ふーん、結構伝統に忠実だったのか」と説得されていたのだが、さっき大まかにチェックしてみたら、安土城の天主と清涼殿の位置関係とか梵山の解釈には触れられていなかった(見落としただけかも)。

ちなみに、足利義満の時代が皇室にとって一番の危機、という説は結構面白そうだと思う。たしかに、義満が朝廷の権能を徐々に奪い取っていたことや、明との朝貢貿易を始めたことは歴史の教科書にも書いてある通り。中国皇帝から日本国王のお墨付きをもらって義満以後も中国皇帝が支配の正統性の源泉となっていったなら、朝廷なにそれ、みたいな事態が生じても不思議ではなさそうだ、と想像できる。たぶんそういう事情があるから、右寄りの人は足利義満売国奴と見なすんだろうとも思う*1

*1:宮脇『真実の朝鮮史663-1868』p.222