Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

数理神学

落合仁司という神学研究者知ってる?本業は経済学なんだけど、俺からみるとトンデモ系なんだね。神の存在は数学的に証明できると言っている。カントール集合論があるでしょ。…それで彼は、神には矛盾してることがたくさんあると。たとえば三位一体は、神は1なんだけど3であり、3であって1である。これは人間には理解できない。それは、神は絶対無限の存在だからであると言うんだよ。…数は無限にあると。また偶数も基数も無限にある。だから偶数と奇数を足したら、二無限にならなければならないのに、無限はひとつであると。だから神が1にして3、3にして1であってもおかしくないという論証なんだよ。

…そもそも無限は数ではないんだよ。だから無限と無限を足しても二無限になるはずがない*1

落合の数理神学がトンデモ系だということは多くの人が言ってるし、私もそう思う。だけど、ここで呉智英が言ってることは雑だし、落合の議論の奇妙さを捉えることに失敗してると思う。

なぜ雑なのか。落合は、三位一体論という神学の命題を証明できると主張しており、神の存在は無限公理として措定してるのではないかと思う。それと、無限基数は自然数や実数ではないという意味で数ではないだろうけど、足し算とかの演算を無限基数にまで(矛盾することなく)拡張できるということは、カントール集合論が保証している。そもそも落合が訴えてるのは、無限基数の足し算ではなく、むしろ、無限集合では部分集合と一対一対応をとれる、という命題の方ではないかと思う。

では実際にはどこが奇妙なのか。まず、落合の議論をざっくり言うと、神の本質というのが無限集合として与えられたとして、その無限部分集合として父・子・聖霊を考える、すると一対一対応がとれる、だから神の本質は一つだけど、3つの位格をもつというのも整合的に理解できる、というものだと思う。これの問題点は、『ギリシャ正教 無限の神』に対するamazonレビューの指摘が的確に思える。

落合の「証明」は、「無限集合においては全体と部分は(濃度が)等しい」という集合論の定理に拠っている。そのため、全体である神(の本質)を、まずは三つの部分に「分割」しなくては、無限集合論を三一論に適用できない。しかし、そうした操作は不可能なのである。というのは、

 神は分割できない

からである。それゆえ、言うまでもなく、三つの位格は、神の本質を三分割したものではない*2

このレビューは「神は分割できない」の典拠も挙げていて偉い。

ところで、上で引用した呉の発言は次のように続く。

でもこの落合という人が、変なことを書いて、無限や絶対ということに引き寄せられた気持ちはわかるんだよ。人間存在は有限だけど、それは無限を前提にしている。つまり、人間は不完全なものだと言うけど、もともと、不完全な本来の在り方なんだね。 

私は呉が言うのとは全然別の理由で落合のやろうとしたことは理解できなくはないと思う。三位一体は信仰箇条であり、理性によってはその真理が把握できない、らしい。でも、真理を把握できないとしても、せめて無矛盾性とか充足可能性、そのくらいは理性によって把握できてもよくないだろうか?しかし、それを示すには三位一体をフォーマルな(?)命題として定式化しないと始まらない。本当にそんなことができるのかどうかは私は知らないし、大して興味もないけど、そういう課題がありうる、ということくらいは理解できる気がするのである。

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*1:『愚民文明の暴走』pp.59-60

*2:Amazon CAPTCHA