Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

司馬史観を問う?

テレビの歴史番組で最近よく見かける磯田道史が司馬遼太郎についての新書を上梓した。未読なのだが、amazonのレビューを見たら、歴史家が司馬遼太郎を論じることはこれまでほとんどなかった、と著者は言っているらしい。レビュアーは大御所がこれまでにも司馬論を書いているでしょ、と批判している。このレビューを見て何となく気になったので、レビュアーが言及してる中村政則の本を図書館で借りて読むことにした。

検索してみると、『近現代史を問う:司馬史観を問う』(1997)と『『坂の上の雲』と司馬史観』(2009)の二冊が見つかった。前者は岩波ブックレットなのですぐに読めるかと思ってこの順で借りたのだが、前者は後者の3章に収録されていたので、二つも借りる必要はなかった…。

著者による司馬批判のポイントは、一言でいうと、明るい明治と暗い昭和という対比は単純すぎであり、また(これと関連するが)、日清・日露戦争を祖国防衛戦争と位置付けるのは不適切、といったところだろうか。『近現代史を問う』は副題で「司馬史観を問う」とある割には司馬のファンだという藤岡信勝自由主義史観を批判するのが主目的といった体裁の本で、批判が飛び火するような形で司馬も攻撃されているという印象。

坂の上の雲』をやや詳しく取り上げている『『坂の上の雲』と司馬史観』の1章は、祖国防衛論を否定しつつ、『坂の上の雲』の細かな事実誤認をいくつか指摘している。こういう作業に対して、小説なんだから面白ければいいだろうと言う人もいるわけだが、著者は司馬が『坂の上の雲』について、小説ではあっても「事実に拘束されることが百パーセントにちかい」「小説というのは本来フィクションなのですが、フィクションをいっさい禁じて書くことにした」と言ってる、とする。司馬がそう言っている以上、小説なんだから面白ければいいだろうという擁護論は勘違いもいいところ、ということになるだろうか(pp. 68-69)。

なお、著者は『坂の上の雲』の執筆時点でアクセス可能な情報によって防げたはずの事実誤認と、その後の研究によって誤りだと分かった記述を分けている。これは実証的に批判するからには心がけておくべき態度といえる。しかし、私は著者の記述にも間違いがあるのではないかと疑っている。

この義和団事変の際、連合軍は八月中旬、いわゆる旅順虐殺事件を起こした。p.16

…たしかに義和団は、日本人捕虜の首を切り、手足を切断するなどの虐殺を行った。だが他方で、日本軍もその報復として約200人の中国人を虐殺し、無防備で非武装の住民を三日間にわたって家のなかで無差別に殺した。米英の新聞『ニューヨーク・ワールド』や『ロンドン・スタンダード』が「日本軍の大虐殺」の見出しで報道し、その記事は欧米各地の新聞に転載された。p.17

いわゆる旅順虐殺は1894年11月であり、義和団事件北清事変)は1900年なので、ここは時系列がおかしいと思う。引用箇所は、義和団事件のときに連合国軍、とくにフランスやらドイツは略奪をほしいままにしていたのに対して日本軍は「一兵たりとも略奪しなかった」と司馬が書いていることに対して疑いをさしはさむ、という文脈である。この時期の日本軍の品行方正を強調する司馬に対し、著者は終始懐疑的だ。それはわからないでもない。しかし、日本軍をとにかく悪く描きたいがために、上のような時系列の混乱が生じてしまったのではないか。歴史家として実証の意義を強調する一方で、自身も先入観で目が曇っているのではないか。そんな風に思った。