「支配の正統化」とはウェーバーが定式化して以来、支配に内在する永遠のパラドックスである。このパラドックスは、正統性は自らの内には正統化根拠を持たない、という矛盾に起因する。正統性が自らの正統化根拠を自らの内に求めることは、「クラスの混同」というラッセルの矛盾を冒すことになる。
正統性の根拠を自らの内にもつことはできない、という話がどうしてクラスパラドックスの話にすり替わるのだろうか。「タイプの混同」なら分かるが、「クラスの混同」というフレーズは奇妙ではないか。…といった疑問がすぐに浮かんだ。
しかし、その後でもう少し冷静になってみると、「この時代の社会学業界では、数理論理学の話題と無理やりでもいいから結びつけないと学者とみなしてもらえないといった空気が支配していたのだろうなぁ」という感想にかわった。実際、宮台真司も『システムの社会理論』の中で、当時は形式化へのオブセッションが強烈にあった、と言ってる(p.220)。この「オブセッション」という表現はここでの文脈にうまく当てはまっていると思う。彼自身も論文の中で、例えば「血讐のマルコフ連鎖」とかいう表現を使ってるのだが(p.272)、これとか何の意味もないと思う。「血讐の連鎖」でいいじゃん。