Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

世界史の哲学

『世界史の哲学』という文章を大澤真幸が書いている。これは『群像』に連載されてるもので、今のところ『古代篇』『中世篇』『東洋篇』『イスラーム篇』『近世篇』が書籍になってる。まだ続いていて、もはや逝けるとこまで逝くという感じである。

たぶん、今までの大澤の文章をある程度読んでる人にとってはあまり新味はない。彼はいつも同じようなことを言ってるが、最近の文章を読んでそれまで理解できなかった筋が見えたということもないし…。たしかに、大澤が紹介している小話から得られる情報はそれなりに多い。何だかんだで彼はそれなりに博学だし。まぁ、参考文献一覧がないし、索引も付いてなくて使いづらいけど…。

でも、個人的にはもう正直、大澤の議論は利用する証拠にバイアスがかかってたり、単なる言葉遊びのペテンにしか見えなかったりで、読むのがつらい。新刊の『近世篇』もぱらっと眺めてみたけど、つらい。

大澤いわく、通説では、近代科学は言葉(聖なるテクスト)による論証を事実による論証に置き換えた。しかし、ガリレオによれば、科学とは宇宙と言うわれわれの眼前につねに開かれた偉大な書物を読むことなのであり、実験や観察はそのテキストを読むことだ。よって、事実による論証も一種の言葉による論証である(p.145f)。

自分は到底納得できないのだが、ちなみに、観察と実験を重視した王立協会のモットーが「言葉によらずNullius in verba」なのはどう説明されることになるのだろう。

また、科学革命の時期は経験に対する疑いが増した時期でもあったとしてデカルトの懐疑を傍証として挙げている。デカルトで科学革命を代表させるのは極端だし、デカルトの懐疑だと、2+3=5のような算術の真理さえ疑われるのだけどなぁ…。まあたしかに、デカルトは感覚は明晰判明性が低いとか、「たとえ経験がわれわれに反対のことを示すように思われても、われわれはやはり感覚よりも理性により多くの信頼を置くべき」(『哲学原理』)みたいな議論してる人だけど。