最近『神は妄想である』を読んでみた。ドーキンスの本には色々手を出してきたけど、宗教を扱った本を読むのはこれが初めてだったりする。
- 作者: リチャード・ドーキンス,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/05/25
- メディア: 単行本
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ドーキンスの考えは、超自然的な創造主を措定するのが宗教の本質であって、したがって、創造説を論駁できれば宗教を潰したことになる、というものである。アインシュタインのような物理学者が「神」という言葉を口にすることはあるが、そこから含意されるのは、有神論でも理神論でもない。なぜなら「神はサイコロを振らない」といった言明は、すべての事柄の核心にランダム性が横たわっているわけではない、などと読むことで「神」への言及を完全に避けることができるから。
ドーキンスのターゲットは、いわゆる宗教一般ではなく、もっと限定されている。仏教や儒教について、これらはそもそも宗教ではなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方もある、と述べているからだ(p.61)。彼のターゲットはあくまで創造説である。
こういう宗教観は狭すぎるという意見もある。『ふしぎなキリスト教』の中で、大澤真幸はドーキンスに触れて次のように述べている。(pp.126-127)
ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じてはいない、といいます。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、ドーキンスの本を読むと・・・その内容は聖書とは矛盾していても、あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるを得ません。・・・
現代を考えるうえで重要なのは、このような態度のレベルの信仰だと思うのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はごく一部にすぎないとか、そのように思う人もいるかもしれません。しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。
しかし、こういう反応があることをドーキンス自身はよく知っていて、『神は妄想である』の中でも、そういう意見を述べた読者からの手紙を紹介している(pp.25-26)。その上で、「宗教」という言葉をこういう風に緩い意味で使うことにドーキンスは強い不快感を示している。まぁ実際私も不快だったんだけど。形質をデザインする自然選択のパワーにドーキンスが熱中しているのは確かだが、そういう情熱をことさらに「宗教的」と呼ぶ眼目ははっきりしない。で、はっきりしないのであれば、「宗教」なんて不要な表現を使わなくってもよいだろうに。