Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

外来語

大学に入ったくらいの頃、「律法」とか「力能」といった用語が、じつは「法律」とか「能力」を逆さまにしただけだということに気付いたのを憶えている。こうした用語は今では特定の文脈で使われる専門用語になっているのだろうが、もともとは、わざわざ逆にすることにあまり合理性はなかったのではないかと思う。明らかに聞きなれない用語を使うことで素人を煙に巻く、単なるハッタリに過ぎないのではないかという気がする。

古い話題だけど、加藤尚武『進歩の思想 成熟の思想』という本の中で、政治思想史家の丸山真男をこき下ろした文章がある。もともとは雑誌『諸君』に掲載されたエッセイらしいのだが、そこで加藤は、哲学に関する丸山の知識は旧制高校の秀才レベルにすぎず、大著『日本政治思想史研究』で使われているおびただしい外来語の用法は厳密にはすべて間違いだと喝破した。例えば、加藤は

Sollenを云々するまえにまずSeinが知られねばならぬ…Seinとは何か。儒教の場合には明らかに唐虞三代の制度文物というDas Geweseneである

という文章を引用して、いくつかの指摘をする。まず、この文章は自分の言いたいことを人にキチンと理解してもらおうと思う人が書くような誠実さをもっていない。それでも丸山が言いたいことを翻訳するなら、「義務の究極のよりどころとなる客観的なものは、儒教では唐虞三代の著作という形で与えられており、またそれが物事の本質を表すものと受け止められていた」といったところだろう、として論旨を押さえる。その上で、"Sein", "Sollen" の使い方がおかしい、なぜなら、カント哲学の用語として使われる限り、存在は一般に義務の根拠にはなりえないから。ドイツ語の辞書上は適合しているが、思想的な背景が抜け落ちている、と。

このような指摘はまことにもっともだと思われる。加藤のエッセイを読んでいて、この辺の箇所は読んでいてかなり痛快だった。そうだそうだ、こんな分りづらい文章を書くようじゃ本当にダメなんだ、と強く思ったものである。

ちなみに、加藤のエッセイの存在は、中島義道『哲学の教科書』という本をパラ見しているときに知った。中島はもう少し丸山に優しい(?)態度を示している。当代の碩学である加藤と比べたら丸山の哲学的知識は旧制高校レベルなのかもしれないけど、それでも法学部の人たちは気が狂ってるほど勉強しているので、丸山が旧制高校レベルなら私なんて旧制中学レベルなんじゃないですかね、とかうそぶいている。