Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

池田信夫と科学史

池田信夫は科学史に関しては哲学よりもまともな発言をしているように思う。もっとも、他人の文章に対して日頃から事実誤認とか用語の誤用とかを指摘してることを考慮すると、それほど褒められたクオリティではないと思うけど。例えば、ピーター・ディアの本を紹介している

という記事。

ガリレオは宮廷つき教師であり

トスカナ大公の宮廷付き「学者」という地位は、授業とかやらないで済むのがメリットだったような。自分の研究時間をできるだけ多く確保したいというのがガリレオの願いだったと思う。

西洋の大学も基本的に神学校で前例主義が強かったので、イノベーションは大学からは生まれなかった。

ディアはこうはっきりと断言していない。科学革命にたずさわった人々はたとえ大学外でイノベーションを生み出したとしても、正規の教育から大きな影響を受けていることは見逃せないと終章で述べている。

ちなみに、この記事の面白いところは、ディアの本を紹介しているようでいて、実は紹介になってないところだ。そもそも、ディアは、なぜ自然科学が中国では生じなかったのかというニーダムの問題も取り上げていないし、ポパーを引き合いに出してもいない。

あと、ポパーといえば、記事の序盤ではポパー反証主義一定の評価を与えることを示唆しつつも、後半ではポパーの立場を「実証主義」と呼んでいるように読める。しかし、ポパー実証主義には批判的ではなかったかなぁ。実際、彼は形而上学に対してそれほど敵意を持ってなかった。

このような多くの国々の競争は実用的な知識を必要とし、ビジネスや戦争に応用できるかどうかが学問の基準になった。こうして「使えない知識」が捨てられ、実験や観察に反する理論を棄却する実証主義が植民地時代以降に科学の方法論として確立した――というのが本書の説明である。

あまりよい纏めとは思わないなぁ。ディアのポイントは、使えない知識と実用的な知識を対比するというよりは、自然を理解することに重きを置く自然哲学から、自然に介入して操作することを可能にするような知識に重きを置く自然哲学への変化がこの時代に生じた、ということではないかなと思う。だから、例えば、医療では、健康を維持することよりも、偶発的な病気を治すことの方が注目されるようになった。