Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

『探究II』を読む

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

柄谷行人が数理論理学の基本的な理解を欠いているというのはよく言われるが、言語哲学に対する一知半解ぶりもなかなかのものだと思う。例示のため、『探究II』の3章1節・4章1節からテキトーに抜粋してコメントしてみる。

ソクラテスは人間である」において、主語の「ソクラテス」が実体であり、述語の「人間」は偶性である。(p.38)

ふつう「偶有性」は白のような性質に対して用いる。人間のような第二実体ないし実体的形相に対しては用いない。

固有名は、多くの個体を指示する可能性がある… 例えば、ソクラテスという名の人間は大勢いるので、ソクラテスによって個物をあらわすことはできない。それに対して、ラッセルは、「これはソクラテスである」という文における「これ」が、真の固有名(論理的固有名)であり、究極的な主語であるとみなした。ラッセルのいう「これ」はx(変項)である。正確にいえば、「xが在り、xはソクラテスである」といういい方になる。(p.39f)

日常的に使われる固有名が複数の個体にあてはまるという意味で多義的であることは、確かに問題ではあるが、ラッセルが固有名を偽装された記述とみなした主要な理由は別のところにあるのではないか。例えば、固有名の指示対象が存在しないケースをどうするのかという問題。「バルカン」とか「ペガサス」とか。

そもそも、多義性の問題は固有名を偽装された記述とみなすことで解決するのだろうか。「ソクラテス」を「プラトンの師匠」の省略とみなせるのは特定のケースに限られる。別の場合には「ヒュパティアについて記した教会史家」の省略かもしれない。それなら最初から「ソクラテス」を同音異義語とみなせばいいと思う。

あと、「xが在り、xはソクラテスである」は存在量化文ではなく単なる開放文だし、「在る」が一階の述語として使用されている。実際には、ラッセルは存在を個体の性質ではなく、命題関数の性質と考えていたのではなかろうか。

「これ」以外のすべての主語を述語とみなす論理学は、述語論理と呼ばれるが、それが完成するためには、ふつうの固有名を記述(確定記述)に置き換えられるということが前提となる。(p.40)

この「前提」とやらはどっからでてきたのだろう。自然言語の固有名を一階言語の定項に対応させるのは、むしろ一般的ではないだろうか。

確定記述とは、漱石を「『吾輩は猫である』を書いた小説家」というようなものである。それは一人しかいない。したがって、記述理論は固有名を単称命題言明と同一化する(p.54f)

確定記述は英語の場合、"the F" のような形式によって特徴づけられるので、日本語に確定記述という表現があるのかどうかは微妙な問題である。それに、確定記述に対応する対象が一つだけかどうかはF次第である。

「単称命題言明」という言い方も、ふつうしない。命題と言明を重ねるというのが何とも奇妙だ。

クリプキは、固有名があらゆる可能世界にわたって妥当するがゆえに、それを固定指示子と呼ぶ。(p.55)

「妥当」という語はこの文脈ではふつう使わない。固定指示子の定義は色々あるが、標準的なのは、ある指示子が固定指示子であるとは、その現実の指示対象が存在する可能世界ではすべて同じ対象を指示する、というものではないか。 

関連記事