この10年ほど、宮台真司はかなりの頻度でギリシャ哲学に言及している。しかし、古代ギリシャに関する彼の議論には単純な事実誤認が多いように思う。
例えば
ルーマンによれば、近代における法の実定性は単に人が作ったという観念ではない。スパルタにおけるリキニウスのような一回的立法の観念はありふれる。実定性の本質は、「いつでも法を変えられる」という、法変更可能性の持続的法体験にある。*1
世界史の教科書を読めばわかるように、スパルタの伝説的立法者はリキニウスではなくリュクルゴスである。
たしかに、この程度の間違いならさしたる害はないのだろう。そもそも、宮台氏は自分の関心に引き付けてギリシャ哲学のアイデアを参照しているにすぎない。例えば、初期プラトンと後期プラトンを対比させながらネタとベタの違いを論じる、といったように(『幸福論』p.319n46)。だが、正直これは何言っているか判然としない。知性主義に傾倒も何も、『プロタゴラス』や『メノン』を読む限り、プラトンは最初から主意主義より知性主義に傾倒していたのではないだろうか*2。
そもそも、初期プラトン/後期プラトンという対比に関する彼の理解には基本的な事実誤認がある。宮台氏は、ペロポネソス戦争にアテナイが敗北した後で、初期から後期のプラトンに移行したと言っているが*3、ペロポネソス戦争はBC431-404年、ソクラテス裁判がBC399年、プラトンが著作活動を始めるのはソクラテスの死後だから、計算があわない。ブラトンの対話篇を初期・中期・後期に分類するのは一般的な慣例だが、そうした分類と宮台氏の区別は食い違っていると思う。