Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

多値論理と様相論理

という記事だが、色々な箇所が変だと思う。まず冒頭に

様相論理学に対する従来のアプローチは不十分である。

とあるが、クリプキ意味論が本文中でまったく触れられていないことを思うと、「従来」とはいつのことを言っているのだろう、という疑問が湧いてくる。また

これまでの記号論理学を前提にして様相論理学を試みても、せいぜい3値論理学しか可能にならない

とあるが、そもそも教科書でふつうに習う様相論理は二値論理だし、3値より真理値の多い論理を作るのに様相演算子なんて必要ない。

ブールの著作に関しては次のように述べられている。

「もしxが人間を表し、yがアジア人、つまりアジアの人間を表しているとするならば、"アジア人を除く全ての人間"という概念は、x−yで表現される」[Boole: An Investigation of the Laws of Thought, p.34] 。しかし"アジア人を除く全ての人間"は"人間であってかつアジア人ではないもの"と解釈して、x(1−y)と表現されるべきである。

"xまたはy"を"x+y"としては、xとyが排反事象でないときに問題が生じる。

クラスで解釈するなら(例えば、"+"はユニオンのことだと解釈する)、どちらも別に問題はないと思う。

ウカシェーヴィチについて。ウカシェーヴィチの3値論理を否定する永井氏の論拠は「連言は条件と否定によって、 EKpqNCpNq つまり p∧q ⇔ ¬(p→¬q)と定義される」と前提すると、連言の真理値計算が奇妙になるというものだ。しかし、この双条件が成り立たない論理は直観主義論理など他にもたくさんある。この双条件を前提すべき理由を永井氏は示していない。

ルカシェウィッツの失敗の原因は、確率計算が最も難しい条件(含意)の定義から始めたところにある。

ウカシェーヴィチは確率計算について考えていたわけではない。また、含意は論理学にとってもっとも重要な概念である論理的帰結の対象言語における対応物だと考えれば、含意から始めるというのは、決して奇妙なことではないと思う。言語の含意断片というのは重要な研究対象であろう。

他にも、連言の真理値を計算する上で規約を設ける必要があると言ってるが、この論点は、それより前の箇所で「命題を命題結合子で合成した複合命題は要素命題の真理値を独立変数とした真理関数であるから、複合命題の真理値は要素命題の真理値から計算されるはずである」という主張と不整合。そんな規約を導入することになるなら、そもそも結合子は真理関数的ではないことになる。確率論をやりたいなら確率空間を導入して。

Postscript (2014/2/12)

この文章を書いたとき、私は様相論理の意味論といえばクリプキ意味論しか知らなかったので、なぜ永井氏が「これまでの記号論理学を前提にして様相論理学を試みても、せいぜい3値論理学しか可能にならない」というようなことを言ったのか分からなかった。しかし、最近、ウカシェーヴィチ『数理論理学序説』の訳者解説やウリクトの『論理分析哲学』を読んだことで、なんとなく事情が見えてきた。
ウカシェーヴィチとタルスキは、三値論理で様相演算子の解釈を与えることを試みたという。彼らの解釈では、様相演算子は真理関数的である。可能性をM、必然性をLで表すと*1

  • [Mp] = min{1, 2[p]}
  • [Lp] = 1-min{1, 2-2[p]}

となる。思うに、このとき次の原理がトートロジーにならない…。

  • CLCpqCLpLq (つまり、☐(p→q)→(☐p→☐q))

反例は、[p] = 1, [q] = 1/2 とすると、[CLCpqCLpLq] = 1/2。しかし、T原理やS5原理はトートロジーになりそうである…。

ちなみに、『ウィトゲンシュタインウィーン学団』には、ウィトゲンシュタインが、矛盾なんて怖くない、すべては解釈の問題だと論じる文脈で、タルスキの三値論理に言及している箇所がある(邦訳p.200f)。タルスキはウィーンで行われたコロキウムで三値論理について説明したらしく、ウィトゲンシュタインはそれを聞いていたのだとか。

しかし、本当にこんなやり方で様相概念を扱うことができるのだろうか。次の記事が問題点をうまく要約してくれている。

真理関数的であることを要求したため、ウカシェーヴィチの3値論理が現代的な意味での様相概念を表現しているとはとても思えません。つまり、命題AとBの真理値が偶然的に真のとき、A→Bの真理値はウカシェーヴィチの3値論理でも真になります。しかしAとBが真なのは偶然的な事実なので、このケースで「A→Bの真理値が必然的に真である」と考える現代人は少ないだろうと思います*2